又々 ”知恵”のお話(四諦八正道)

さて、ご案内のように仏陀はエロヒムの不死の惑星において、49日間に及ぶ“知恵”つまり『科学の奥義』を伝授されるわけです。彼はそこで何を学んだのでしょうかね?まぁ、地球上では現実の問題として、“苦”の海に溺れて人間がアップアップしているわけですからね。

そういった苦しみを少しでも和らげ・減らし・無くしていくための、様々な知恵を仏陀は“ヘビ”から手ほどきを受けたのではないかと思うのですが・・ここで云う「知恵」というのは、病気に罹って苦しんでいる人間にとっては、云わば健康な状態に戻るための薬の処方とか手術みたいなものですからね。

例えば、そういった患者に対して処方箋を的確に出すにしても、手術をするにしても基本的な医学や科学的知識はもちろん必要であると思うのですが、やはり何はともあれ人間じたいの“仕組み”というものですね。「苦の出てくる仕組み」、つまりヒトは『快楽原則』のシステムで機能しているでしょ・・

その快楽のコントラストの役目としての苦があるわけですから、その苦はあくまで人間の心と体の仕組みの問題ですからね。やはりそうなると、それは人間の心と体の機能のすべてを動かし管理している設計図、遺伝子レベルでの知識を学ぶというのが大きなポイントになってくるのではないでしょうか?

それについては エロヒムも『メッセージ』のなかで云っているように、例えば、時計の仕組みというものは その時計を作った時計職人、本人が一番よく知っているわけですからね。

この49日間における仏陀になされた“ヘビ”からの「知恵の伝授」を想像するとなると、そういったプロの時計職人が入りたての弟子に、その時計の仕組みや故障した時の修理の仕方を手取り足取り教えている、まぁそういった光景をほうふつとさせるわけなんですね・・。

・・こうした「知恵の伝授」のあとに仏陀は地球に帰還することになるのですが、この帰還後まず最初に説法したのが仏教のエッセンスである、この『四諦八正道』というシステムだと云われているわけです。

このシステムのコンセプトというのは、人間の知恵を成長させて“苦”を無くしていく、そしてゆくゆくは“悟りの境地”へと向かうための橋渡し・・そのためのノウハウ・訓練法になっているわけです。

“悟り”への橋渡し・・というのはどういうことなのかと云うと、「悟りの境地」というのは何度もご紹介のように『科学の黄金文明』のことですからね。

「生老病死」に関わるあらゆる“苦”から離れた社会、モデルはエロヒムの住む「不死の惑星」ですね。そういった世界を実現するためには、やはり人間一人一人の“覚醒”が必要なわけですよ。個人があっての社会ですからね。

目指すのは『悟りの境地』ですから、人類全体の“知恵の成長=覚醒”がなければ、『科学の黄金文明』も何も無いわけですからね。・・ここでの大きなポイントとなるのは、エロヒムの考案した『四諦八正道』に込めた彼らの思いは、地球も将来は彼らの社会のようになるようにと、そういった社会的規模の大きなビジョンがあって、そのためにこのシステムが仏陀に伝授されたということですね・・。

そういったわけで、何よりも個人レベルでの覚醒が大切なんだということなんですが、残念ながらヒトは目覚めていないわけですから、眠りこけていて気が付かないということですからね。自分がはたして病気なのか健康なのかも解からないくらいなんですよ。ですから、やはりどうしても自分自身で、そういった現状の自分に気が付かなければいけないわけです。

ヒト様がどうのこうのと言っても、本人自ら気づいて目を覚まさなければ、次のアクションにつながらないわけですからね。本人の自覚が無ければ、知恵の出しようも成長も無い、これではお手上げですからね。そこで他人が出来ることといえば、まぁ『そろそろ、起きたらどうですかぁ?・・』と、お節介のひとつも言うぐらいのことですかねぇ(笑)・・。

・・例えば、嫉妬深い人に『あなたは嫉妬心が強そうですねぇ・・嫉妬は病気ですから、私がそれを治してあげましょう・・』と、そういったハナシにはならないんですね。それに『愛することは、互いに所有し束縛しあうことなんだ・・』と、『嫉妬するのはあたりまえでしょ・・嫉妬するというのは、愛している証拠なんだよ・・』と言って、嫉妬の感情は愛のスパイスぐらいにしか考えていない人にとっては、それはまったく大きなお世話というものなんですよ。

しかしそのような御仁であっても、例えばある時「無償の愛」をテーマにした本か映画を観たりして、あるいは自分自身の恋愛事情を振り返ったり、さては身内の離婚問題での修羅場を見たりした時に(笑)・・そこで、この嫉妬というものは良くないものだと、本人が『はッ』と気が付くならば、話は別なんですね。

ラッキーにも、そういった“気づき”があって、まぁこういった嫉妬の感情が出てくるとあまり気持ちのイイものではないし 後味の悪いものだからと、そこで初めてコレは何とかしなくてはいけないと、嫉妬は止めようと、そういった“自覚”が生まれることになるわけですからね。とにかく本人の自覚がない限りどうしようもないわけですから、そういった自覚を促すために、仏教は長いあいだ色々なお節介をしてきたわけなんですね(笑)。

色んな方便を使ってですね・・世の中は四苦八苦ですよと、こんなにも苦しみがあります・・一万八千も煩悩があるんですよと・・。 いや、もっとたくさんあって一切皆苦なんだと。『あなたにもエゴや嫉妬や恨み・憎しみの感情や、攻撃心があるでしょう・・苦しいでしょう・・それをどうにかしたくはないですか?・・』とね・・。

・・そういったわけで、『四諦八正道』の「四諦」の一番目にある『苦聖諦』というのは、その「苦の真実」という意味なんですが、まずはそういった色々な“苦”=病に罹っている人に対して、「気づきを与える」ということ。そして病気を治してもらおうと、そういったように本人に「自覚を促す」ということですよね。

気づき→自覚、そういったことから始まって、覚醒への階段に片足を乗っけるという最初のプロセスに入っていくわけです。この『苦(聖)諦』というのは、その「第一段階のステップ」を言ってるわけなんです・・つづく。