続 “ヘビ”のお話

“ヘビ”というのは、爬虫類の蛇から拝借したニックネームだという事なんですが、観音様と“ヘビ”とのつながりを考えてみますと、観音様の成り立ちというのは蛇の形や生態が似ているからというのではなくて、ご案内のように“ヘビ”が今まで人類に対して表してきた“救済”と“慈悲”の行為というものがあったからだと思うわけですね。

つまり、“ヘビ”からその救済と慈悲を受けてきた太古の人々から子々孫々にその「救済と慈悲」の事実が伝えられ、後に菩薩という概念ができてくるわけで・・千手観音などでおなじみの、その慈悲深い性格が色んなタイプの観音様といった疑似人物像として具現化されたのではないかと思うわけです。

ちなみに、十一面観音や千手観音はあらゆる方向を見渡して、あらゆる人々を救い上げるといった慈悲深い性格がその外形になっているわけで、この原型と思われる多面神の像は五千年以上前のインダス文明の遺跡からも発掘されていますからね。

まぁ、時代と共に蛇に対する嫌悪と蛇のトーテムを持つ種族解体もあり、“ヘビ”の爬虫類の蛇の部分の特徴が払拭され、人間“ヘビ”の人類に対する慈悲と救済の部分だけが残って、そこにスポットがあてられながら多くの年月をかけ今の観音様という形になったということになるのではないでしょうかね。

それと共に、爬虫類の蛇の形や生態と実際の“ヘビ”たちとの関わりとか共通する処を思いめぐらしますと、なぜ“ヘビ”たちは他にも動植物があったにもかかわらず、蛇を彼らのニックネームに選んだのかというのも、これまた私にとっては興味のある処なわけです。

たしかに、あの細長い体をクネらせて静かに動く姿、その独特な地面を滑るように進んでいく動きは、そこに嫌悪感を持つ向きはあるにしても、とても芸術的ではあります。そして、あの無表情でクールな雰囲気は一種の神秘性さえ感じるわけです。

さらには、毒牙で噛みついて獲物に巻き付いて窒息させ、自分よりはるかに大きなものでもアゴをはずして丸呑みにしてしまう。そういった光景を見ると、誰でも蛇に対して大変な驚きと共に畏敬の念すら感じるのではないでしょうか。

まぁ、地球に追放されて『蛇のように“地を這(は)う”事になった・・』というのは自分たちの境遇を皮肉った文句とは思いますが、こういった不思議な存在感を持ったユニークな生き物から自分たちのニックネームを拝借したというのは、とても解るような気がしますね。

また、彼らが惑星に帰った後、“ヘビ”たちのことを忘れた原始人たちが、名前が同じというだけで蛇を自分たちの祖神に祀り上げるんですが、そのくらい蛇はインパクトの強い生き物だというのも納得できる気もするわけです。

実際、古代人は蛇の偶像を作りそれを祀り拝み、自分たちの先祖は蛇であって人間は蛇の子孫であるといったトーテミズム(特定の動植物を自分たちの祖先とする原始信仰)が世界中に蔓延することになるわけです。

たとえば、現在残っている蛇にまつわる古代遺跡などで有名な所といえば、ギリシャのパルテノン神殿は「蛇の神殿」といわれていますし、メキシコのチツェンイッツァの「蛇のピラミッド」なんかは特に有名ですよね。

日本の神社というのは元々蛇を祀る場所のルーツになっていると私は思っています。生きた蛇を飼ってそれを神事に使った蛇巫(へびふ)といった巫女の存在、あるいは諏訪神社では蛇を使った土室神事が12世紀まで続いていた記録もありますし、有名な処では出雲大社や奈良の大神神社の御神体は蛇ですしね・・

神社は蛇の宝庫といっていいくらいの場所ですからね。ご案内の三種の神器、剣、勾玉(まがたま)、鏡、この三つは蛇の体を表すという説はおもしろいですね。剣は蛇の体あるいは尻尾。勾玉は蛇の胎児あるいは牙。鏡は蛇の目あるいは“とぐろ”の形。「蛇研究」の権威・吉野裕子博士によると、神社の正面に飾ってある注連縄(しめなわ)は蛇の交尾がモチーフになっているということです。

まぁそういったアンバイで、やはり「“ヘビ”が地球を離れ、彼らの惑星に帰ってしまった・・」というどうしようもない事実があるわけです。これは止えないという事になるのでしょうか、しだいに「“ヘビ”の真実」は人間の記憶から消え去ってしまう。

人間を創造し愛し、その人間たちに「この宇宙には、神なんかいないんだよ・・」と、自分たちは神ではなく、同じ人間であることを教え、生きるための色々な知恵や科学知識を与えたにもかかわらず、皮肉にもそんな“ヘビ”に代わって、彼らのニックネームにすぎない爬虫類の蛇が、今度は人間の祖であり神になってしまったというわけです。

たしかに、当初の惑星政府の計画では、創造された人間たちはあくまでも彼らの創造物といった存在にしているわけですから、当然“ヘビ”というのは創造主といった役割を与えられ、祀り拝まれる対象としてのいわゆる“神”といった存在になっていたわけです。

しかしご案内のように、“ヘビ”は自分たちの創った人間たちを我が子のように愛してしまったんですね。愛する子供たちが自分たちに「ひれ伏して、神のように拝まれることに我慢がならなかった・・・」と『メッセージ』に書いてあるように、とうとう彼らは惑星政府のご禁制を破って、人間には与えてはいけないはずの“真実”を教えてしまうわけです。まぁ、いわゆる‟親ごころ”を発揮してしまう・・

もちろんこの“真実”というのは、一口に言うと「知恵」というものです。別の言葉で言うなら、「科学」ですよね。まぁ、“ヘビ”たちは人間が潜在的に持っている才能を認め、将来は彼らと同じような科学者にしたかったと言っていますからね、人間は科学的な才能はあるはずなんですよ。

本来ならば人間は物事を客観的に観て、知的な判断と行動ができるにもかかわらず、“ヘビ”たちが彼らの惑星に帰って居なくなってしまうと、また再び原始的な信仰にハマってしまうんですねぇ、これが・・。

人々は“ヘビ”の“よすが”である爬虫類の蛇を自分たちの祖とあがめ、性懲りもなく偶像にひれ伏しそれを拝み続けていたというわけです。というよりも、今もなお神や偶像の類をありがたがって、拝み続けている人々が世の中にはたくさん居るといったアンバイでしょう。

それにしても我々の生来の遺伝子レベルでの問題なのでしょうか、人間の“拝みグセ”といったものは、今でもアダム&イヴの大昔の時代からあまり変わらないものなんですねぇ。

そういったわけで、世界中の仏教国では真実の“ヘビ”のことを知らずに、彼らの慈悲・愛が偶像化されて出来上がった観音様に人々が手を合わせて拝んでいるのを当たり前のように見ることができます。

また正月が来ると、蛇の交尾をかたどった神社の注連縄・しめなわの下で願い事をしている姿をよくみかけるわけです。これも見慣れた日本の原風景を感じさせるものではあるんですが、それはまた私にとっては何となく微笑ましくみえる光景でもあるわけですね・・

ここで一句

人のさが? “ヘビ”の代わりに 蛇拝む