ご案内のように“ヘビ”たちは自分達が創った人間たちを我が子のように愛し、ゆくゆくは彼らの持っている高度な「知恵」を伝授しようと思ったのでしょうね。『メッセージ』にもありますが、人間に科学知識を教え、将来は彼らのような科学者にしたかったと言っていますからね。
しかし彼等の望みとは裏腹に、攻撃心ばかりが強い“子供”たちはその“親”が与えた科学知識を武器に利用して、子供同士が互いに殺しあいをしてしまう・・まぁ、これはアダム&イヴの時代から今もなお続いているんだけれども、残念にもこういったような戦争文明の道を歩んでしまうことになるわけです。
そういった背景のなかで、後の「四十九日間」における“ヘビ”から仏陀への「知恵の伝承」につながっていくわけですね。その伝承のなかで、一番のポイントというのが“空・くう”・・つまり“無限”の真実といったものなんですね・・・。 ご案内のように、そもそも我々は 「無限の一部」であるわけですからね。
例えば、「無限」という存在が親だとすると、我々はその子供みたいなものだと思うんですね。それはあたかも磁石の断片が親磁石に向かって、知らず知らずのうちに、そこに吸い寄せられていくようなものではないでしょうか?
これは少し乱暴な言い方かもしれませんが、宇宙に存在するものは?と問われるならば・・それは「無限」と「無限の一部」であると・・結局はこのフレーズに尽きるのではないかと私は思っています。
どのような存在であろうとも、元はと言えば無限の物質とエネルギーで出来ているわけですからね・・心を持っている生命であろうとも心を持っていない物質であろうとも、ありとあらゆる生き物やそうでないもの・・etc・・。
人の心も体もそれを構成している細胞や、それらを機能させ管理している遺伝子にしても、目に見えるものから目に見えないあらゆる存在・・それらは常に変化しながら、いつでもどこでも「無限の一部」として在る。
そして、これらの存在はそれこそ始めもなく終わりもなく、ただひたすらハイレベルな“知恵”を持った生命体によって変えられる。 云わば、夫々が遺伝子レベルで創造者の作品である創造物として存在する・・
そしてその創造物が今度は創造者になる。このサイクルが無限の空間の中で、そして過去から無限の未来に向かって繰り返されてきたし、これからも繰り返されるわけですね。 ・・これを『空・くう』というわけです。
例えば、ある時はどこかの惑星で人間としてなのか鶏としてなのか、またある時は人参としてあるいはバラの花として存在するのかもしれませんが・・そういったように色々な形に変えられるといった憂き目を味わいながらも、「無限の一部」で構成された作品から「無限の一部」で構成された別の作品に変化しながら存在していくというわけです。
ですから我々も、無限の時間のなかで変化を繰り返しながら、形を変えながら今ここに居るわけです。 エロヒムが知恵を使ってくれたおかげで・・単なる土くれ「チリ(微粒子)・無限の一部」が練り上げられ、遺伝子レベルでもって、現在はたまたまこの地球の上で人間という作品として存在しているにすぎないわけです・・。
仏教では『空・くうを知り、空・くうを実践するのが“悟り”である・・』と、そのように云ったりもするんですね。仏教では空というのは最高の真理であって、他のものはすべてその真理に至るための“方便”なんだというわけですよ。
方便というのは原語(サンスクリット語)でウパーヤというんですが、それは『限りなく“真実”にアプローチする』という意味なんですね。 そして、その一番の方便が“知恵”というものではないかと思うわけです。
知恵というものが一番の方便であるがゆえに、我々はその知恵を成長させて、それを大いに使い、空=無限にアプローチすべきだということですね。
実際、我々に『空の真実』を教えてくれたエロヒムにしても、彼らを創造した親エロヒムがいるわけです・・少しややこしいですが、その今は亡きエロヒムからその真実を教えてもらって、彼らもいまだにその方便を使いながら無限にアプローチしているわけですよ。
銀河宇宙や人間宇宙の探求にしろ、これらはすべて方便、つまり「科学という知恵」を使ってアプローチするということですからね。ご案内のように、彼らは“不死”ですから・・不死というのは「(限りなく)無限に生きる」ということですからね。これも、限りなき無限へのアプローチそのものではないでしょうか 。
そういった最高の方便である知恵というものは、これは誰のモノでもない、「無限からの借り物」なんだということなんですね。まぁ何度も云いますように、“空・くう”の真意というのは『科学的な生命創造が、無限の時空のなかで、無限に繰り返し行われている・・』ということです。
我々がエロヒムによって創造されるずうっとはるか昔から、どこかで誰かが、この知恵=科学という道具を使って・・まぁ、云わば無限から知恵を借りて生命を創ってきたわけです。
その知恵を使った創造の循環のおかげで、巡りめぐって我々も今こうやってここに居るわけですよ。そうであるなら、どうでしょうか?知恵というものが、無限からの借り物であるならば、
その無限からの借り物である知恵によって創られた我々の生命といわれる「心と体」も、そしてこの心と体のすべてを機能させている遺伝子・DNA、それらもすべては無限からの借り物ということになるのではないでしょうかね?
エロヒムはこの事実をこう云っています・・『我々の生命を支えているものは、我々の生体組織と‟無限”との絶え間ない“交換”である・』と・・。しかし、我々はそういった無限という存在のなかで動き回っていて‟無限との交換”によって支えられているにもかかわらず、
つまりすべては無限からの借り物にもかかわらず、モノでも人でも知識でも・・、我々はそういった「無限の一部」を何でもかんでも自分勝手に“所有する”ということをしているでしょ。
貨幣経済と所有制度を作ったりしてね・・おかしなハナシなんです。『これは俺のものだから、使うなら○○円お金を払ってください・・』といったアンバイ・・。
無限は我々に対して何かの権利を主張しているわけではないしね・・すべてを無償で我々に貸してくれているんですけれどねぇ。無限は電気・水道代みたいに「無限のエネルギー及び物質使用料」や「無限との交換手数料」を払ってくれと、我々に請求してくるわけではないですからね。
無限は何も求めず与えず、ただひたすら無限の物質とエネルギーの“交換”というカタチで、無償で‟タダ”で何の見返りも無く、我々「無限の一部」を支えているわけですよ・・まぁ、もちろん無限は支えているといった意識は無いんでしょうけどね(笑)・・
仏教は昔から、この‟無限との交換”から導いてきたモノをひとつの知恵として使っていますよね。『三輪空寂・さんりんくうじゃく』の作法というのはそうなんですね。コレは「誰が・・誰に・・何かをする・・」この三つの輪が空である、執着しない、こだわらない・・ということです。
・・我々の行為でも言葉でも何でも、これらはすべて他の人へのプレゼントみたいなものなんですね。仏教では このプレゼントを布施といいますけれど、我々の世界では夫々が外にあるものを何でもかんでも、自分の方に引っ張り込むエネルギーばかり使うものだから、
目先の得ばかりを追っかけて、損をすることは悪であるといった価値観が強いですからね。無償でプレゼントをするということはあまり無いんですね。 とにかく貪欲さを使って自分が得をしないと納得しないわけで、必ず見返りを求めるんですね。
ですから他人にアクションを起こす場合、どうしても『私が、俺が○○さんに・・した、してあげた・・』という傲慢・尊大な気持ちになってしてしまう。もらう方ももらう方で、損得勘定でもって後先の事ばかりを考えるから、これも素直に喜べない。
しかしプレゼントというものは、送られる相手側が主役なわけですから、相手の幸福を願い、相手の喜びを察して、相手の幸福のためにするものですからね。別に『私が・・した・・』でなくて『他の誰かが・・した・・』でもいいわけですよ。要するに、相手が幸福になればいいわけですからね。
『私・わたし』にこだわらなくても・・まぁ、云わば無我の気持ちでイイわけなんです。ですから、匿名のプレゼントが一番値打ちがあるというわけなんですね。人目を避けて、コソッと郵便受けに入れるわけですよ。
プレゼントにも色々ありますよ。どうせ要らなくなったものだからと、ゴミ整理をするような雑な気持ちで人に与える行為もあるし、自分が必要として使っているものであっても、
『まぁどうぞ、かまいませんので、使ってください・・・』と、あなたが使ってくれるのなら私も嬉しい、ありがたいんだと・・そんな気持ちで相手に差し出すといった、そういった行為もあるわけです。
プレゼントというのは動機が大切でして、一切の見返りを求めず当てにせず、“ただ”与えるために与えるのが価値があるわけですからね。そうやって与えることが出来ると、今度自分がプレゼントをいただく番には、ただただ謙虚にいただく・・堂々と何のこだわりも無く、ありがたくいただくことが出来るわけです・・。
まぁそういったアンバイで、世間では『これは俺のものだ・・』『私がしてあげた・・』『私の脳みそから出てきたんだから、このアイディアは私のものだ・・』と、人はフツーに“私・俺”を前面に出してきて自己主張し、自らの所有権をアピールするんですね。
しかし、空(無限)の立場から観て云うならば、何度も云いますが、この世にあるものは目に見えるものから目に見えないものまで、すべて、自分のものだと自分の所有物だと・・
そういったモノは一切無い、何も無いということなんですね。自分の心も体も自分のものでは無い。ましてや、そこから出てきた考えや知恵にしても、意識にしても自分のものでは無いということです。
我々は誰でも無限から生まれて、‟無限との交換”に支えられ・・『無限の一部』として無限のなかで生きて死んで、そしてまた無限のなかに還っていくんです。すべては無限のモノですから、無限からの借り物ですから、みんな一緒、同じモノでつながっているんです。
無限の一部である我々は、無限からのものはすべて共有して、皆の幸福のために、仲良く使えばいいんですよ。皆がそのような気持ちになるのであれば、人間同士余計なエゴを出して、互いに所有しあったり、互いに批判し攻撃しあったり・・ましてや暴力を振るったり殺しあうということも無くなるのではないかと思いますけれどね・・。
まぁ、こういった“無限”という存在を、エロヒムは我々に教えてくれたわけで・・それゆえ我々はこの無限をよく理解しなければいけないんですね。なぜならご案内のように、仏教というのは空つまり‟無限”から導いてきた『知恵』がベースになっていますから・・慈悲(愛)の実践でも、無常や無我でも縁起でもね。
その源流である『空・無限』そのものの理解がなければ、仏教の本質というものも中々見えてこないものなんですよ。ですから何度も『空だ、無限だ・・』とシツコク云うわけなんですけれども・・まぁ、そこらへんはお察ししていただきたいと思います・・。