❝苦❞のお話

・・こういった苦の海に溺れている人間に対して“ヘビ”が仏陀に伝授したのが、今の仏教に残っている『四諦八正道』といったシステムなんですね。まぁこれは我々にとって現在は松葉杖みたいなものかもしれませんが、大切なものですからね。

そこで、我々が「苦・楽」を感じる仕組みについてなんですが、エロヒムが遺伝子・DNAの云わば設計図面をひいた人間の“仕組み”なんですね。その人間の仕組み、つまりヒトの遺伝子レベルで言うならば、

まず一つに『快楽原則』といったコンセプトでもって、我々の心と体の設計図がひかれたということなんですね。つまり我々は エロヒムによって『快楽』という方向に向かって考え・行動するように創られているということなんです

そのようにプログラミングされているということです。早いはなし、エロヒムは”苦しむ”ために我々を創ったわけではないということですよ。俗な言い方をすると『楽しみなさい・・人生は楽しむためにあるんだから・・』ということなんですね。

あくまでも快楽・喜び・幸福感が主役ですよということです。苦しみ・痛み・悩みといった影・闇は決して主役にはなっていないんですよ。あくまでも光が主役ということです。

よく光は知恵に喩えられますよね。闇の部分が人間の無知をあらわしていて、そこに知恵の光が差し込んでくる。そこで人間は幸福に目覚める・・

まぁ、そういったように我々はエロヒムが住んでいるような、幸福を絵に描いたような社会を目指しているならば、光より闇のほうが多い、楽よりも苦のほうを多く感じるような、感じさせるような我々の社会というのは、やはりどこかおかしいんですね。

それはフツーではない、決して健康ではないということなんですね。まぁそれは、我々にはエロヒムのような知恵が無いからだと言ってしまえば、確かにその通りでしょうけれども

・・・そもそもエロヒムは『快楽原則』、そういったコンセプトで人間という時計を創ったというわけです。これは時計を創った時計士本人が云っていることですから、まず間違いはない話だと思いますよ。

さてここで、ご案内の『四(聖)諦』の一番目の「苦(聖)諦」というものを観てみますと、エロヒムの云う幸福に至るためには、まず現状の自分に“気づく”という処から始まるということなんですね。

まぁ例えば、自分の性格はどうしようもなく悪いんだと、攻撃心が強く怒りっぽくてヒトと喧嘩ばかりしているしね。おかげで色んなヒトに迷惑をかけていると、嫉妬深いしエゴ丸出しで、わがままで傲慢でと・・etc・・

そういった自分の性格の悪さ、人格の未熟さといったものには、なかなか気づきずらいものですよ。まぁ、気づいたとしても それを治そうとか何とかしよういう処まではいかないんですね。

なぜなら、どうのこうの言っても本人はそういった悪い性格ゆえに、攻撃的・暴力的な“快楽”を得ているわけだし、そういった自分の性格もまんざらでもないといったアンバイで、けっこう気に入っているものなんですね。ですから、そこから一歩も前に進まないわけですよ。

しかし、そういった悪い性格が本人にとっては非常に気になるもので、不満なものであるならば、それもひとつの“苦”なんですね。それと一緒に、社会や会社・家庭での自分の立場・役割といったものに対する不満もあるでしょ。

先生、社長・部長と言われ、あるいはお父さん・お母さんと言われて・・etc・・ヒト夫々にそういった役回りを自分が演じている、演じなければいけない不満・虚しさというものもあると思いますよ。

『俺は 何でこんなことをしているんだろう・・』と 職場や家庭での裏表のある人間関係のなかで、金や地位・名誉を得て、それらを維持するために毎日アクセクしているだけの人生の虚しさ・・

『コレではないんだよなぁ・・ちょと違うよなぁ・・』とね。そこで運良く、そういった“気づき”が自覚になって、まぁひとつの流れとしては、次のアクションに行く場合もあるわけですよ。

例えば仏教では、このプロセスを大きなサンプルにしているのがありますよ。仏陀の伝記にある「四門出遊」というのが、それだと思いますね。 仏陀がまだ出家する前、まだお城に居たころの話で・・

まず最初にヨレヨレの小汚い老人を見るわけです。その後に膿だらけの見放された病人をみる。そして、これも投げっぱなしの腐れかけている死人を見るわけですよ。

こういった光景というものは、すべてに満たされて、若く健康で何の苦労も不自由も無く、お城の暮らしをしている仏陀にしてみると、「生老病死」に関わる世間の“苦”の現実というものをいっぺんに見せ付けられるわけですからね。そこでやはり、それらを自分の身に引き当てて考えたりもするわけです。

『私もいずれは、このようになるんだなぁ・・』と。あるいはまた『人間はどうして老い、病気になって、死ぬのだろうか・・』といったアンバイで、こういった人間の“苦”の現状が彼の大いなる“気づき”になったとしても、これはフツーの自然の成り行きだと思いますよ。

しかしその後で、そういった「苦」とは一切関係ないですよといった様子の、見るからに幸福オーラをかもし出して、穏やかな表情をしていながら凛(りん)とした佇(たたず)まいの、そういった感じの良さそうな修行者を見かけるわけですよ。

つまりそこで、そういった彼が抱えてしまった“苦”に対して何らかの解決策を与えてくれそうな、そういったモノを匂わすような、云わば“新情報”が仏陀に提出されるわけですね。

まぁ、この新情報が たまたま仏陀の場合は修行者なんですが、このきっかけ・触発されるものが現在では本や映画のなかのガツンとくる“良きメッセージ”であったりするわけですよ。

つまりここで、「苦への気づき」があって、新たな情報・価値観に出会って、それが引き金になって“自覚”するといったことになるわけですね。 まぁ仏陀のケースは、自分の悪い性格だとか立場がどうだとかといった、

そういったチマチマした凡人のものとは違って(笑)、何しろ時代の預言者のテーマは「生老病死」全部ですから、スケールが大きいでしょうからね・・

まぁそういった“苦”に対しての“気づき”があって、それがきっかけとなって自覚が出てくる・・そして次のステップ。探求の道に入って行くといった流れになっていくわけです。まぁ、これを昔ふうに云うなら「宗教心に目覚める」といったことにでもなるんでしょうけれども、

これが『気づき→自覚→新しい情報・価値観→再自覚→アクション』といった、まぁ云わば 理想的な『苦(聖)諦』から始まるシナリオが出来上がって、仏陀の伝記として成立して、今にあるといったアンバイなんですね・・・・。