再 『八正道』のお話

・・さて、いよいよ『八正道』も佳境をむかえ、最後の⑦「正念」=意識・観察と⑧「正定」=集中の処までやってきました。この二つは『八正道』の実践を表わすフレーズですね。

①「正見」=正しい見解・無限(空)の哲学から始まって⑥「正精進」までは、主に“哲学”と“慈悲(愛)のエネルギー”にスポットを当てたものでしたが、この⑦「正念」⑧「正定」というのは“意識”を使った実践、つまり「瞑想のノウハウ」に当たるものを表わしているフレーズということになるわけです。

まぁ、そもそも「瞑想のノウハウ」というのを最初に人類に教えたのはエロヒムですからね。彼らが、云わば人間といった時計を作ったわけですから、その時計の動かし方を一番よく知っている時計士である彼らエロヒムが、古今東西に渡って、その時代の人間の成長具合に合わせた瞑想スタイルを企画して、それを伝授してきたわけです。

そして、その瞑想を実践するには『瞑想は意識から始まり、意識で終わる・・』といったフレーズが表わしているように、これは言うまでも無く、終始“意識”という“道具”を使って行うものなんですね。

ご案内のように、「意識」というフレーズも 色々なニュアンスでもって使われるわけです。例えば、「気づく」というのもそうですし、物事を「客観的に観る」というのもそうです。それと「観察」するということ、これら「気づき・客観視・観察」はすべて“意識の仕事”になるわけです。

そのような「意識の道具」を使った訓練法が例えば、現在の仏教の“禅”を代表とする色んな瞑想の実習のノウハウとして今に残っているわけです。それを表わしたものとして、「正念と正定」つまり「観察と集中」といったものがあるわけです。

まぁ、“禅”に限らず瞑想の実践訓練には観察と集中はつきものなんですが、特に“禅”には「観察」を特化したノウハウが今に残っているわけです。それは観察を主体にした瞑想ですから、分類上『観察瞑想』というわけです。

瞑想には、そのポイントの置き方によって、おおまかに『観察瞑想』と『集中瞑想』に別けたりもするわけです。まぁこれは便宜上、観察と集中に別けているだけで、こういったものにあまりこだわる必要は無いんですが、瞑想のあまり経験の無い方のために解かりやすく言うと・・

・ ・例えば、どのような瞑想であれ、基本的に最初は“呼吸”させますが、その時は意識を“集中”させるわけです。息を吸ったり吐いたりした時の、お腹や胸の膨らんだりへっこんだりする動き、あるいは空気がノドを通る時の感覚を十分に実感するために、意識を集中しましょうといった指導をするわけなんですね。

そういった“集中”に主眼を置いたノウハウを『集中瞑想』あるいは「止観」の“止”を取って、「止行」ともいうわけです。そして「止観」の“観”というのは観察の“観”ですから、自分の意識を「気づき・客観視・観察」に向けるわけです。

この集中・観察をミックスした技法が“禅”として、いまの仏教にも伝承されてきているわけです。まぁ、禅といっても日本の禅寺の参禅会で行なっているような“禅”では、ほとんどが主に“止”の集中系の実習で終始しているといってもイイのではないでしょうか。

こういった集中瞑想とは別に、『観察瞑想』については、自分の心身の“観察”に特化した観察技法というものもあるわけです。これを総称して、『ヴィパッサナー』というわけですがこの意味は「こまかく観る、観察する」ということです。

『観察瞑想・ヴィッパッサナー』には、仏教系の他にもいくつかの流派がありますが、上座部系の「マハシ・システム」と「ゴエンカ・システム」が有名ですね。しかし、実際の実践のなかでは「観察と集中」とは切り離せないものですから、この二つを別けるというのもあまり意味が無いんですね。

例えば、禅で『無念無想になりましょう・・』といったことを言いますが、これなんかはラエリズムの「無の瞑想」みたいなモノですね。その実践においても、最初からさっと一瞬に“無”の状態になれるわけではないんですね。最初は自分の体を観る処から始まって、それから体の感覚を感じ無くなるまで 体の一点に集中していく・・・

・・その一点集中のおかげで、体中めまぐるしく動いていた“感覚”が全体的に止まっていくわけです。そして、今度はグルグルと回転している“思考”の動きを治めていくわけです。そこで始めて、いわゆる“無”の状態の準備が整うわけです。

また、いったん“無”の状態になったからといって、心身の機能がすべて無くなっているというわけではないんですね。 体の感覚や思考、感情や欲・・etc・・、そういった機能や動きが、表面的な活動が一時的に中止している状態になっているだけですから、もちろん意識はあるわけです。というよりも、その時は意識だけが際立っているわけです。

その“無”の状態をキープしているのは意識ですからね。言うならば、その時は“意識そのもの”になっているわけです。そして、例えばその“無”の状態をこのまま持続するのか、あるいは止めるのかを決定するのも、その意識に決定権があるわけです。

つまり、この“無”の状態が非常に気持ちが良いので何時間もこのままの状態で居るのか、あるいはそろそろこの位で止めて、元の日常の生活に戻ろうかと決めるのもその意識を観ている意識なわけです・・。

・・まぁ「観察と集中」の説明の途中で、少し入り込んだヤヤコしいハナシに成りましたが(笑)・・。禅で言う「無念無想」といったものにしても、そのプロセスというものはこの「観察と集中」=「正念と正定」が共に使われるということなんです。

そういったわけで、『八正道』では「正念」・「正定」と、一般人にも解かるように別々にして説明するわけなんですが、これはあくまで便宜上ことと理解してほうがイイと思いますね・・

世の中にある、たくさんの既存の瞑想法に関しては エロヒムが云うように「禅」に限らず、彼らが伝授した当初のオリジナリティーというものは、かなり損なわれているわけです。

まぁしかし、それにもかかわらず、これもエロヒムが云っているように、神秘のベールに包まれているモノのなかにも優れた技法のモノも伝えられてあるわけです。

例えば、この『観察瞑想』について言うならば、実際に実習するとお解かりになると思うのですが、人間の心身を科学的なアプローチでもって観察するノウハウと、その瞑想効果においてもかなり納得のいくものではないかと思いますね。

私見では、“ヘビ”が仏陀に伝授したノウハウが、この『観察瞑想』のシステムのなかにはかなり多く継承されているのではないかとは思っています。

まぁ、それらの既存の瞑想ノウハウと、この度エロヒムがラエル氏を通して伝授してくれた、それらの既存の瞑想の源流とも言うべき『官能瞑想・ハーモニーメディテーション』とを見比べながら、少し瞑想の実践についてのお話をしていきたいと思います・・・つづく