又々 ❝苦❞のお話

・・無限には“苦”が無いというなら、それでは“苦”はどこにあるのですか?と聞かれたら、どうでしょうか。「無限の一部」の中にあるのでしょうか、それとも「無限」の反対の「有限」と答えるでしょうかね?

私なら、苦は「わたし」のなかにあると答えますね。なぜなら“苦”を感じるのは誰でもない「わたし」だからです。すべての人間が持っている「わたし」というモノですね。まぁ、それを別の言葉で言うならば『遺伝子・DNAのプログラム』とでも言いますかね。

ではなぜ、「わたし」なのかといいますと、我々の中にある夫々の「わたし」の心と体のすべての設計図・遺伝子(ゲノム)はエロヒムによって、「快楽原則」といったコンセプトでプログラミングされているということなんですね。もちろんこれは自分(わたし)の体を守る免疫システムに代表されるモノとも結びついている。

つまりこれもプログラミングされている欲望や感情と連結している「快楽原則」ゆえに、「わたし」はいつでもどこでも苦を避けて(快)楽の道を通らざるを得ないということ、そういった宿命のごとく我々の心と体の機能は始めから遺伝子のプログラムによって決定されているということなんですね。

つまり「わたし」は「わたし」という概念を持ち、「わたし」という自我感を持って、いつでもどこでも“苦”を感じながらも、しかもその苦を避けながら(快)楽を求めつつ、そういった果てしない「苦楽の道」を歩き続けざるを得ないというわけなんです。

ですから、当然(快)楽をより多く感じるために、そのコントラストとして必要とされる「苦・不満感・物足りなさ・・etc・・」を感じるシステムがなければいけないわけなんですね。

ご案内のように「苦・楽」というのは、あるポイントに来るとひっくり返るコインの裏表みたいなもの、あるいは光と闇みたいなものですからね。これらは切っても切れないモノなんですね。どちらか一方が欠けても成り立たない、そういった関係なんです。

そういった訳で、人間には死ぬまで“苦”は付きモノですから、まぁ永久に引っ越していかない同居人と一緒に暮らしているみたいなモノですからね(笑)、そういった覚悟で苦・楽共々、仲良く付き合っていったほうがイイんですね。

ですから、そのためにもできる限りご案内の“知恵”を使って対処していきましょうということになるわけですよ。というよりも、我々の心と体をフツーに健康的に機能させていくためには、どうしても知恵を使わないわけにはいかないシステムになっているんですね。

そういったわけですから、「痛みや苦」を感じるというのは、『知恵を使いなさい!』といった知らせ、合図だと思えばいいんですね。

こういった「自我感=わたし」は個体保存のため、我々の生命の危険から守るためにはとても大切な役割であって、「痛みや苦」は云わば不快・苦を感じた時に働くセンサー、あるいは遺伝子・DNAのプログラムが発信する信号・警報みたいなモノなんですよ。

こういったセキュリティシステムは黙っていても無意識レベルで機能していますからね、例えば、火事が自分のすぐ近くまできたら、『(わたしは)そこから離れろ、脱げろ・・』と瞬間的に見えないスイッチがはいるでしょ。

小さな虫が飛んできて、目の中に入ろうとする前に無意識にパッと瞼が閉じますし、間違って海に落ちたら泳げない人でも、反射的に手足をバタバタして溺れないようにするんですね。

逃げないと(わたしは)焼け死ぬし、黙って何もしないでいたら(わたしは)海の藻屑になってしまいますからね。こういった時の無意識に起きる生命を維持するための反応の仕方も、プログラミングされたひとつの“知恵”として我々の設計図にインプットされているわけです。

こんな緊急時にその場所からさっさと逃げるのも知恵、とっさに瞼が閉じるようになっているのも知恵、そういったシステムの裏にはちゃんと計算されたエロヒムの知恵が隠れているんです。

「わたし」というのはそういった心と体を機能させているシステムつまり『遺伝子・DNAのプログラム』なんですね。まぁ、仏教では、そういったような「わたし・我」は無いということで、「無我」になっていますね。無我というのも、これも「無記」に大いに関係あるんですね。

つまり「諸行無常」ですから、「わたし」も常に変化しているもので、そういった変化する「わたし」が存在するモノでは無い・・「わたし」が無いゆえに「わたしのモノ・・」というものも無い(無所有)

・・また「わたし・我」を動かしている変化しないモノ、例えば「わたし」の本質=永遠不滅の魂のようなモノもやはり無い(霊魂の否定)・・といったように説かれています。つまり仏陀は当時“無我”と‟無常”といったフレーズを使って、まぁ空つまり無限の在り方から導いてきた‟知恵”を使って、その間違っている「わたし」の概念や霊魂の否定をしていたわけです。

ただし仏陀は、遺伝子レベルでプログラミングされている機能としての「自我感」あるいは「自我意識」といった採りあげ方はしなかった、それについては明言しなかったのではないかということです。

まぁですから、『般若心経』にあるように「空つまり無限においては」意識はもちろん無いとは説かれてはいますけれども、ご案内のように人間の中に在る遺伝子・DNAに関するモノは「無記」でしたでしょうからね。

ですから、霊魂の否定であるとか、当時の概念としての「わたし・自我」を否定して「無我」を説いたとしても、仏陀は遺伝子レベルでの話、つまり「本当の“わたし”=遺伝子・DNAのプログラム」についての込み入った話はしなかったのではないかと思われますね。