“知恵”のお話

・・余計な“苦”を味わうことがないように、我々も日常で何気なく知恵を使っているというわけなんですね。それでも四苦八苦の海におぼれてアップアップしているのが我々の現実の問題としてあるわけですからね。

まぁそういった“苦”をすこしでも減らし・やわらげ・無くしていくために“ヘビ”は仏陀に色々な知恵を伝授したわけです。これがご案内の「悟りの49日間」における“知恵・科学の奥義”の内容になっているんですね。仏教にはこのシステムが『四諦八正道』としてまとめられ、現在に残っています。

そこで以前に、この四諦八正道と知恵とを絡めて書き留めたモノがありましたので、少しご案内したいと思います。

・・略・・内観によって、自己の観察をして自分の欠点ばかりが観えてくるというのは、まぁ観察もうまく進んでいるのではないかと思いますよ。

部屋の掃除をする時も初めは大きなゴミが目立つものです。まずは大きなゴミを片付けてからですからね。貪欲さも怒りも根は深いんですよ。私の場合も、三歳の時にはもうすでに立派な嫉妬心や憎しみがありましたからね。

思うに、我々の遺伝子・設計図に描かれているプログラムというものは、始めから苦の原因となる貪欲さや怒り・攻撃心そういったものはスムーズに出てくるわりには、他人を思いやったり・助けたり・同情したりと、そういったものは中々うまく出てこない、そんなセッティングになっているのではないでしょうか。

ですから、我々の“苦”は今始まったことではないと思いますね。というのも、例えば『聖書』の創世記の時代にさかのぼってみると、エロヒムに創られた改良型人間の第一号のアダムその息子カインが嫉妬に狂って、弟のアベルを殺して土に埋めたといったような象徴的な事件がありますからね。

これは後に、初期の人間のエゴと怒りのエネルギーを通して人間の罪の深さを克明に描いている『カインの末裔』といった文学作品にもなっているわけです。

その中で我々は、人間のそういった怒りや貪欲さ、エゴや攻撃心といったものが血筋として、遺伝子のどこかに、仏教的に言うと業・ごうですか・・

大げさに言うと、人類の業・ごうといったものを背負って産まれてきているわけですよ 。まぁ、ヒトは生まれながらにして、おおよそエゴイストなわけです。

さらに、それに拍車をかけるように我々は怒りと貪欲にまみれた価値観の社会に順応した反応・クセを繰り返して使って生きてきているわけです。

そういった悪いクセを親から子へ子から孫へと連綿と、ずうーっと今まで飽きもせず使い続けてきたわけですから。我々の脳ミソは当然、貪欲・怒り・無知の三毒に冒されたプログラムでガチガチに固まってしまっているんですね。

ですから、いま我々が自分自身の内面を探ってみた時に、人類が今までやってきた行為がその業=結果として、遠い遺伝子の記憶がよみがえるごとく我々の前にドーンと突きつけられるのは当然のことではないでしょうか。

そこで、確かにこの人類規模の『業=苦』があるのは“わたし”という一人の人間の責任だと、それを一個人に押し付けるのはあまりにも酷ではないかと思われるかもしれませんが、その原因が『どこどこにある、責任が誰にある、他の何かにある・・』といっても問題が解決するわけはありませんからね。

まずはご自分の目先にある分くらいの“苦”は自分で受け入れて、この苦を何とかしましょうと・・。

つまり、エロヒムが教えてくれたモノを実践して、その苦を少しでも減らし・無くしていくように改善していきましょうということが今我々にできる最善の行為だと思うんですね。

この実践的訓練は、確実に遺伝子レベルの深いところまで修正可能だということが実感できると自分でも確信しています。善い結果は必ず出てくるはずですよ。まぁ、そういったわけで、もうこれは飽くなきトライ&エラーですよ。

時間はかかっても、まぁ少し踏ん張ってでもやり続けるしかないと思いますよ(笑)・・。

・・略・・まぁ自我意識ですが、我々の意識というのはオギャーと産まれて、しばらくしてまず自分の体に気が付くわけです。赤ちゃんのころに、黙って自分の手をしゃぶったり,見たりしているでしょ。

五感で感じてそれが快感・喜びになっているんですね。そこで段々と五感も感じながら、意識もそこにいっているんですね。そこで段々と“わたし”を見つけるわけですね。

これが私の手だ、足だと、そうやって体の快感が意識を導いてしだいに“わたし”という概念が作られていくわけです。 そういった小さいころの快感を覚えていますからね。

ですから最初、意識は“わたし”の周りだけでウロウロしていますよ。これが自我意識ですね。意識も最初の快楽とつながっている自我意識から始まっているんですよ。そのうち、そういった“わたし”に色んな付属物を付けていくでしょ。

『俺の、わたしの○○・・です』。わたしの体から始まって、わたしの家族・家・会社・国・知識・名誉・・etc ・・“わたし”という概念を持ち始めると、今度はその自我意識が「欲」を使って手当たりしだいそれらを所有していくわけです。

我々は『快楽原則』ですから、それが快感になっていくんですよ。そうやって「“わたし”という部屋」をいろいろなもので飾り立てていくわけです。フツーのヒトの人生はそういった事にかまけて、所有の快楽だけで一生終わっていくんですよ。

しかし運良く、そういった狭い部屋の一箇所に小さくあいた穴から外の景色を見て、意識はもっと広い世界があるのを知るんですね。

そして、思い切ってその狭い部屋から外に飛び出してくる。こうやって意識が狭い「わたし=エゴ」の世界から外へ放り出してくれるということもあるわけです。

そしてある時、一番広い『無限』という存在を知ることになるんですよ。そこで自分はその無限の一部であるということを学び、ご案内のように意識は「無限の哲学と慈悲(愛)」とコラボして“知恵”がしだいに成長していくことになるわけです。

今度は自我意識から成長した意識が、知恵による色々な快楽を知ることになるんですね。哲学・意識・慈悲そういったものを使った快楽・喜びですよね。

云わゆる『観照の作法』も身についてくるわけです。まぁ、無限の話をすると長くなるんですが(笑)

・・無限という概念が「エゴ=わたし」という概念の反対語みたいなものなんですね。意識もまずはエゴ(わたし)から出発していますからね。“エゴ(わたし)”から成長していくものなんです。

ですから、仏教の言うように『無我=“わたし”というのは概念だ、妄想・・』なんだと、『“わたし”は無限の一部、無限の“チリ”でできている存在なんだ・・』と言っても、意識が「わたし=エゴ」の部屋から出られないで、そのまわりでウロウロしているだけのヒトには、さっぱり解からないということになるのは当たり前なんですね。

ちなみに、仏教は無限を説きますが、『無限』という概念は無いんですよ。昔“ヘビ”が仏陀に教えましたから、無限から導いてきた知恵はたくさんありますけれども・・。

ですから、仏教の瞑想のプログラムにも、『無限を意識する』といったものももちろん一切ありません。

この『無限という真実』はラエリズムが人類史上、はじめて世間にアピールしたものですからね。そういったわけで、その“無限を意識”するといった瞑想のシステムは『官能瞑想』だけなんですよ。

・・無限を意識できたのならば、これはシメたものですよ。無限の哲学も慈悲のエネルギーもそれに自然に引っ付いてきますからね。

『八正道』のなかでは、知恵に至るための八つの徳目になっていますが、ラエリズムではそのなかでも特に①無限の哲学②意識③慈悲(愛)、この三つにスポットを当てて、それを『覚醒』仏教で云う“知恵”の成長ですね、そこに向けて行きましょうということなんですね・・つづく。