・・略・・仏教には、『無限』の概念は無いですよ。“無限”の定義というのは、“空”の定義と同じなんですが、フツー無限というと「時間と空間において始まりもないし、また終わりもない」ということですね。
まぁこういった定義であるならば、仏教においても、また現在の科学の分野での定義にも適っていると思いますので、誰もこれに対して異論はないのではないでしょうか。しかし、“真実”の『無限の定義』をいうならば「時空の無限性・・」これだけでは少し言葉が足りないわけです。
つまり『人間という生命は この無限の時空のなかで、人間の“知恵”=科学によって、無限に創造されてきたし、またこれからも無限に、この人為的な創造が繰り返される・・』ということなんですね。
これがエロヒムがこのたび、人類誕生以来はじめてラエル氏を通して公開された、ホントの『無限』というものの定義なんですね。ですから、仏教には「無限」の概念は無いと云ったわけです・・。
そして、おかげで地球人はこの「無限」という概念を初めて知って、多くのヒトたちはこの概念を受け入れたわけですし、宇宙の無限性と知的生命体による生命創造をイメージすることができるようになったわけです。つまり、我々の意識が狭い“わたし”の周辺から
さらに社会から地球へと意識が広がって、さらに銀河からもっと遠くへと意識が広がったわけですよ。さらに、その銀河さえ我々の小さな細胞のなかにもあって、そこの惑星のなかにも我々と同じような人間が生きていて、そのことを意識することができるようになったんですね。
そういったように、無限小から無限大へと意識して、あるいは始めも終わりも無い無限の時間の中に存在する「無限の一部」、つまり自分(わたし・我)を意識的に位置づけることができるようになったんですね。そこで、“わたし”という概念も教えられるわけです。
つまり、“わたし・我”の体と心を動かしているすべては、遺伝子・DNAという設計図にあるプログラムなんだということ。そして、そのプログラムも宇宙のどこにでもある単なる無限のチリ=物質とエネルギーでできている・・ということなんですね。
つまり“わたし・我”は無限の一部でもあり、無限の循環の中に在るということなんですね。“わたし・我”は無限からきて無限に還るということ・・知恵によって生命の形を変えながら、また変えられながら、この限りなき循環をしている・・ということなんです。 こういったことを意識することを『無限を意識する』というんですね。
我々はたまたま現在は、この地球で人間といった無限の一部として、生命体として存在していますが、これも他の惑星に住む生命体が持っている『知恵』のおかげなんですよ。まぁエロヒムという我々と同じ無限の一部で出来ている存在の知恵によってですね・・。
・・地球のチリ=物質と地球の周りのエネルギーで作られている遺伝子=知恵の結晶でもって構成されているわけです・・。つまり、この生命の創造というのは知恵つまり科学によって、無限の時空のなかで、永遠に繰り返されるということです。
そして大切なことは、エロヒムもエロヒムを創ったそのまたエロヒムもそのまた・・#@$∞○△□・・と始まりも終わりも無く、永遠に繰り返されてきた、また繰り返されていく・・。そういった生命の創造は、人間の知恵によってなされたということです。
そして我々はこの知恵によって、これからも無限というものに限りなくアプローチしていくということなんです。知恵によって、知恵を使ってさらに無限なる宇宙を探求して・・
さらなる無限を知るんですよ。そして又さらに無限を意識するんですね。この知恵と意識が限りなく更に無限に向かって広がり進んで行くわけなんです・・つづく