『無の瞑想』のお話

八正道の⑦「正念・しょうねん」=意識・気づき・観察、⑧「正定・しょうじょう」=集中ということで、「無の瞑想」でのポイントは“反応しない”といったお話をしました。

『官能瞑想』の非プログラミングを行う時にする「無の瞑想」なんですが、その訓練法についてはあまり詳しい説明といったモノがありませんが、参考の為にこの『無の瞑想』の方法について少しご案内したいと思います。

例えば、お寺で座禅をしている場面があってそこで「無になる・・」といったフレーズをよく聞くんですね。では、この“無”というのは一体どういった状態をいうのでしょうかね?

まぁ、無念無想といったような表現でも使うわけなんですが、フツーに考えると「雑念が無い状態、石のように感情も無く何も考えていない状態・・」そういったイメージではないかと思うんですね。

まぁそういったことなんですが、まるっきりの“無”というわけではないんですね。我々の頭のなかはいつも色んな考えや思いでグルグルまわっているでしょ。もちろん無意識の状態で勝手にまわっています。

そういった状態というのは、云わば信号機の無い交差点をたくさんの車が右往左往して収拾がつかない状態、それと似たような状態になっているということなんですよ。

ですから簡単にいいますと、そういった交差点に信号機を付けて交通整理をしなくてはいけなくなる。片方に青信号を出して、もう片方には赤信号を出してストップさせたりするわけです。

その信号機の役割をはたすのが「意識」といった道具なんですね。その意識という道具を集中力をもって・・観察力を大いに使って・・頭のなかの雑然と動き回っている物事を整理整頓しましょうということになるわけです。

パソコンの機能をうまく働かせるための処理、デフラグみたいなものかもしれませんね。まぁ、そういったわけですから、「頭の中が“無”の状態・・」といった表現をしたとしても、これはひとつの方便ですからね。実際は「意識」という道具を使っているわけですから、無というよりも、意識が活躍している状態といったほうが適切な表現なわけです。

決して「何も無いの“無”」ではないんですね。例えば、我々の日常では『○○しよう、○○しなくてはいけない・・』と欲望といったモノが出てきて、『うまくいった、失敗した・・うれしい・・悲しい・・』といった具合に、その欲望には必ず感情が付いてきますし、

そこにまた『こうしたほうが良かった、ああしたほうがイイ・・』と思考が芋ずる式に反応して、さらにまたそれに別の思考が反応して、その考えたモノに更に欲望が重なってきて・・etc・・と、キリがないんですね。

とにかく四六時中、欲望・感情・思考のオンパレード・反応しっぱなし状態ですから、そういった反応をいったん意識的にストップして・・ものごとを整理整頓、客観的に観る訓練。それが『無の瞑想』のひとつのポイントになるわけです。

ふたつめのポイントとしては、この訓練をする場合のスタイル・姿勢はどうするのかといった問題ですね。それに関しては、まぁ、体の痛みや窮屈で苦しくないアンバイであるなら、それで集中力が保たれているなら結果オーライだと思うんですね。どのような形・姿勢・ポーズ・やり方であろうが、全然かまわないと思いますよ。

例えば禅なんかでも、座ってする座禅の姿勢がオーソドックスな形だと思われていますが、すわってやるから単に座禅というだけですからね。立ったままする立禅、歩いておこなう歩行禅、寝たままする寝(座)禅とホントは色々あるわけで、スタイルもTPOで夫々変わってきますから。

日本の禅寺でやっているように、結跏趺坐スタイルの両足を組んでやらなくても、背筋を伸ばして普通に楽にすわる、あるいは「官能瞑想」の基本姿勢のように横になって寝た状態(寝座禅)でやっても構わないと思いますよ。

本人のやり易い無理のないスタイル・やり方でイイわけです。ちなみに、私の場合ですと腰と膝が故障していますのでフツーは寝座禅か椅子に座った状態が基本でやっていますね。車中の場合は、椅子に背中と頭をつけて座った楽な姿勢でやっていますね。

足は延ばしたままで、手はあおむけの腹のあたりに両手の指を組んで乗せています。このスタイルですと、床か椅子があればどこの場所でもできますからね。寝座禅のメリットは瞑想時間が長くなっても、足腰の痛みは感じないですし体に負担がかからないということですね。

たとえ2,3時間続けてやったとしてもまったく問題はないです。体に痛みや負担が少なければ、それだけ意識が分散しないで集中できるでしょ。ですから、障害をお持ちの方や初心者の方にでも無理なくできますので寝座禅はおすすめだと思いますね。

それと「無の瞑想」に限って、私は立禅・歩行禅はしません。というのも、クセで少し時間がかかっても体の感覚がある程度感じなくなる状態まで持っていくものですから、安全面を考えると、寝るか座ってしかできないんですね、立っていたら危ないですからね(笑)。

まぁ、でもやり方次第では立ったままでも出来ないことはないと思いますよ。混み合った通勤電車やバスの中なんかでも、時間があれば立ったままで出来るでしょうから、これをマスターすれば便利だと思いますよ。

そういったわけで、TPOに合わせて自分の状態にあったやり方でできるわけで、スタイル・姿勢・形は別にコレでなくてはダメだといった決まったモノは無いということですね。

あと三つめのポイントは集中のやり方と意識の持っていき方ですが・・。これは、一言でいうとトライ&エラー、「やってみる・・習うより慣れろ・・」しかないんですね。

まぁ、そんなに難しいモノではないですからね。数回でコツをつかむ達人もいるみたいですが、やはり基本は何回も何回も繰り返しやってみて、自分の感覚でおぼえていくしかないんですね。

例えば、ひとつのサンプルを言いますと・・その前に、まず体が調子悪かったり、考え事や悩み事があったりする時は無理してやらない事です。日をあらためて、ある程度体調が整って、心の波がおさまって落ち着いてきたらやってみてください。

この「無の瞑想」は心身の病気治療のためのモノでも苦行でもありませんし、義務感でもってやるモノでもないですからね。

そこで、自分の態勢を整えたら軽く両手の指を組み、目をつむって深呼吸を数回して、あとは普通の呼吸にもどします。そこからの大まかな流れを云うと、まず体のどこか一点に意識をもっていくわけですね。

息がふくらむ腹でも息の通る鼻の先でもいいですから、そこに集中する感じですね。自分の集中しやすい場所を見つける。そして体のその一点に意識を集中させると、体の他の部分に意識がいかなくなってくる。

たとえば、お腹に集中して息をする、膨らんだら「膨らむ・・膨らむ」、息を吐いて縮んだら「縮む・・縮む」と言葉を出さずに黙念で、腹の膨らむ感覚や縮む様子に意識を集中していく。同じように、鼻ならそこに集中して息を吸って黙念「吸います・・」息を吐いて黙念「吐きます・・」の繰り返しですね。

それと同時に頭の中の考え事などの、いわゆる「雑念」が出てくるわけです。雑念が出てくるというのは、もうデフラグが始まっているということですからね。

しかし、雑念が出てきてもイイんですよ。『雑念だ。。。』とか『妄想。。。』といったアンバイで、雑念が出たら出たでその雑念の内容に見合った“無言の言葉”でもって意識をそこに当てる(言語化=意識化する)わけです。そして、収まったら再び最初に集中していたお腹とか鼻に意識を戻して・・と、この繰り返しですね。色んな雑念が繰り返し出ますからね。

脳ミソが意識下でデフラグの作業をやっているわけですから、整理されるモノが雑念として出てきてあたりまえなんですね。ですから雑念や妄想が浮かんで来たら、同じように『雑念。。。』と、そういったモノに対して意識のなかで“無言の言葉(黙念)”を当てる。

その言葉はできるだけ簡潔にシンプルな単語にする。何かの音が気になったら「車の走る音だ・・」ではなくて、単に『音!』あるいは『聞いた』(‟音・聞いた”がありのままの現象なのでOK・・‟車の”は憶測思考でNG)でストップ。

『あぁ、昨日見たテレビの場面・・』といった長めのフレーズはNG、『雑念!』『妄想!』といった感じでいいわけです。そして、雑念が出れば連想せずそれを追いかけないでやり過ごす、ただ淡々とクールに見送るだけにする・・

それと例えば座禅スタイルでやっていて、足の痛みが出てきた場合にも、同じように『痛み!』と簡潔に黙念する。どこかが痒くなったら、痒みの感覚に即反応して掻かないで、まずその感覚を意識して『かゆみ!』と無言の言葉を当てる。

痒みが我慢できなくなったら、無理をしないで『掻く!』と黙念して痒い場所をかいて、収まったらまた何もなかったように元に戻っていくわけです。雑念とか痛み・痒みといった感覚も“ありのまま”の実感ですので、

この感覚を嫌わないで・・嫌悪は怒りの感情ですから・・感情を使うのはNGですからね。掻くときにでも、あたかも他人の足が痒くてそこを掻いているの手伝っているといった具合に、客観的にクールにその感覚を‟ありのままに”観るわけです。そこで、気持ちがよかったら『気持ちがイイ・・』それだけ・・放っておく、快楽も追っかけない。

ここでのポイントは『あぁ、また痛くなった・・かゆくなった嫌だなぁ・・』ではなくて、出てくる雑念や感覚を客観的に観て、やりすごす・放っておくことですね、追っかけないこと。感情・欲望・思考を使った反応はNGですから。

使うのは「意識」だけですからね。心の中に隠れているモノが出てきたら、それらをすべて意識化する・・。そのうちに雑念も痛みも段々無くなっていきます・・。しかし、慣れてきても雑念は出ますからね。そのうち出てきたら『放っておけ。。。』といった一つの“無言の言葉”だけでもって、すべての雑念等をかたづけられるようにもなります。

しばらく回数をこなしていくうちに集中力もついて、体の感覚もうまくコントロールできてくるようになり、また雑念の内容も洞察出来て雑念も収まりやすくなってくると、そのうち意識だけが際立った状態になります。

云わば、自分が意識そのものになっているような感じですね。無の状態を段々と実感できるようになってくる。そうなると、この訓練も楽しくなるんですね。『意識というのは、こういったモノなんだぁ・・』といった実感を味わうと共に、意識じたいを観察する余裕もでてきます。

その意識の状態でいる穏やかな“無の快楽”といったものを味わうこともできるようになるんですね。例えて云うならば、長い断食をしている時に味わう、何とも言えない穏やかでしかも深い処から来るそういった感覚に似ているような感じかもしれませんね、独特なモノです・・

しかし、その快楽の感覚も『快楽・・』とクールに放っておくんですよ・・これは、快楽を感じるのが目的の訓練ではないですからね(笑)。

このような感じで、意識の感覚と実感を交えて意識することを覚えながら、無で居ること・反応しないことの喜びも実感できるわけですから、意識の筋肉もしだいに強くなっていくんですね。もちろん意識の筋肉と共に観察と集中力もついてきます。

なによりも、非・再プログラミングにおける脳ミソの回路のデフラグ・洗濯(心の悪いクセを治す)をしていることになるわけですからね・・脳ミソの機能も改善されますし、とにかく五感の感度の違いがはっきりと出てきます。

まぁ『無の瞑想』のやり方のひとつのパターンを簡単にご案内しましたが、とにかくコレはやってみなくては実感できませんので、他に色々と「無の瞑想効果」といったモノが発揮され良い結果が期待できると思います。

この訓練じたいは、別にお寺や瞑想道場に行って指導を受けなくても一人で出来ますので、ぜひ試されてはいかがでしょうか。