又々② ❝知恵❞のお話(四諦八正道)  

・・・本人の自覚が無ければ、知恵の出しようも成長も無い、これではお手上げですからね。そこで他人が出来ることといえば、まぁ『そろそろ、起きたらどうですかぁ?・・』と、お節介のひとつも言うぐらいのことですかねぇ(笑)・・。

例えば、嫉妬深い人に『あなたは嫉妬心が強そうですねぇ・・嫉妬は病気ですから、私がそれを治してあげましょう・・』と、そういったハナシにはならないんですね。

それに『愛することは、互いに所有し束縛しあうことなんだ・・』と、『嫉妬するのはあたりまえでしょ・・嫉妬するというのは、愛している証拠なんだよ・・』と言って、嫉妬の感情は愛のスパイスぐらいにしか考えていない人にとっては、それはまったく大きなお世話というものなんですよ。

しかしそのような御仁であっても、例えばある時「無償の愛」をテーマにした本とか映画を観たりして、あるいは自分自身の恋愛事情を振り返ったり、

さては身内の離婚問題での修羅場を見たりした時に(笑)・・そこで、この嫉妬というものは良くないものだと、本人が『はッ』と気が付くならば、話は別なんですね。

ラッキーにも、そういった“気づき”があって、まぁこういった嫉妬の感情が出てくるとあまり気持ちのイイものではないし 後味の悪いものだからと、そこで初めてコレは何とかしなくてはいけないと、嫉妬は止めようと、そういった“自覚”が生まれることになるわけですからね。

とにかく本人の自覚がない限りどうしようもないわけですから、そういった自覚を促すために、仏教は長いあいだ色々なお節介をしてきたわけなんですね(笑)。色んな方便を使ってですね・・世の中は四苦八苦ですよと、こんなにも苦しみがあります・・一万八千も煩悩があるんですよと・・。

いや、もっとたくさんあって一切皆苦なんだと。『あなたにもエゴや嫉妬や恨み・憎しみの感情や、攻撃心があるでしょう・・苦しいでしょう・・それをどうにかしたくはないですか?・・』とね・・。

・・そういったわけで、『四諦八正道』の「四諦(苦・集・滅・道)」の一番目にある『苦聖諦』というのは、その「苦の真実」という意味なんですが、まずはそういった色々な“苦”=病に罹っている人に対して、「気づきを与える」ということ。そして病気を治してもらおうと、そういったように本人に「自覚を促す」ということですよね。

気づき→自覚、そういったことから始まって、覚醒への階段に片足を乗っけるという最初のプロセスに入っていくわけです。この『苦諦』というのは、その「第一段階のステップ」を言ってるわけなんです・・つづく。