次 『八正道』のお話

・・略・・そうですね、フツーは日常であまり自分を客観的に観るといったことはしませんからね。無意識でやってますからね、自分が“反応”していることすら気がつかないわけです。

まぁ『解かっちゃいるけど、やめられない・・』というのはまだイイほうじゃないですか(笑)・・“反応”を繰り返しているあいだは、古いプログラムは無くなりませんからね。これでは、「非プログラミング」は一向にはかどらないわけです。

「非プログラミング」でポイントになるのは、やはり『反応しない』ということですからね。しかし、古いプログラム=習慣・クセというものは“反応”として出ますからね。

たとえ悪いクセを出すまいと思っても、それでも無意識のうちに出てしまう、とっさの時にストップ!が効かない。気づいたところで後の祭りと、確かにそういったもどかしさもありますね・・。

過去の条件づけによって『反応せざるを得ない・・』というのは、何度もご案内のように、これは『八正道』のエッセンスである①正見=無限の哲学あるいは無限から導いてきた空の知恵が身に付いていない。②意識の筋肉が弱い。③慈悲(愛)のエネルギー不足。

つまり、この三点セットの力がうまく発揮されていないのが原因だと思うんですが、ここでは意識=観察力の低下、意識の筋肉の弱さ、こういった処が問題になるわけです。

そこで、“いざ”という時にストップ!が出来るようになるためには、いつも気づいていることが必要ですし、自分自身を客観的に観るといった訓錬をしなくてはいけないんですね。

禅・ヴィッパサナーというのは、意識の筋肉を鍛えるための、闇雲に“反応”しないためのノウハウを持っていますから、そこの技法の部分を学ぶということは、これはイイことだと思いますね。

『官能瞑想』のなかでも、“心を無にする”訓錬を薦めているというのも、“反応”しないという行為がそれだけ脳ミソの整理整頓・デフラグになっていて、我々の脳ミソを効果的に働かせるためには大変イイということですからね。

心を“無の状態”にもっていくためには、意識を一点に集中しますし、意識が「自己観察」といった方向に向いていきますと、意識の集中力も強くなっていきますからね。

とにかく、「非プログラミング」というのは、自分の脳ミソのなかで長年にわたって染み付いた「悪いクセ」を洗濯する作業ですから、自己観察なしでは中々うまくできるものではないですからね・・。

・・ちなみに、仏教の瞑想システムにもある「ヴィッパサナー」といった「観察瞑想」の訓練法の一端をご案内しますと、例えば、腹を立てるのは良くないと誰でも解かるんですね。怒りの感情は自分を傷つけ、他人を傷つけますからね。

そこで「怒りのプログラム」を使わないようにしましょうということになるわけです。これが云わば「非プログラミング」の一大目標になるわけです。 そういった“怒り”に対して『反応しない・・』といったポイントから、これを少し説明しますと・・

この実践法は『自分自身に起きたことについて、そこに主観や感情を入れないで、それを客観的にみて、見送っていく・・』そういった訓錬を行うわけです。

例えば、これも使い古した喩えで恐縮ですが(笑)・・電車の中なんかで、誰かに足を踏まれるわけです。フツーはそこで当然“自分”の足をおもい切り踏まれたわけですから『痛いなぁ~もぅ、頭にくるなぁ・・』となるわけです。

一連の、痛み→嫌→怒りといった反応ですね。この訓練法では、この「反応」の流れを客観的に観ていくんですね。「怒り」について観察するわけです。

この具体的なやり方を極端に云うと、あたかも他人の足を他人が踏んでいるのを見るように、そういったようにクールに観るわけです・・『あ~。。いま足が踏まれているわ。。。』といった感じですね(笑)・・。

しかし、自分の足を踏まれているのは確かなわけですから、当然足には神経が通っていて“痛み”や他の感覚があるわけです。しかし、そこで痛いからどうのこうのと言うのではなくて、その“痛み”なら痛みといった感覚に対しても、落ち着いて、客観的に観ていくんですね。

つまり、他人の足を踏まれているように観るわけですから、“痛み”を感じるにしても即『いてぇな~、』というのではないんですね。その場面を細かく写真のようにカット割りするならば、足を踏まれたそこで一区切り。痛みを感じる所で一区切りするわけです。

踏まれるということで即“痛っ”というのも、これも繰り返しの反応による先入観念(踏まれる=痛い)ですからね。「痛み」でなく単なる「圧迫感」もあるわけでしょ。痛みも観察の対象になるんですね。

まぁそこで、ホントに実感として“痛み”を感じたなら、落ち着いて『痛み。。。』と、これもクールに他人事のように観るわけなんですね、 観察するわけですから・・。 ・・まぁ『痛み。。。』と、ここでストップ!できれば良いのですが、最初からは中々うまくいかないものなんですよ。

痛みについては、痛みを快楽として歓迎しますといった趣味を持つ向きは別にして(笑)、フツーは“嫌”な感覚として扱っていますからね。

仏教ではこの『嫌・・』というのは「怒り」のジャンルの感情ですが、嫌といった感情が出てきてそこに気づいたならば、そこで『嫌だと思った。。』と、その時の感情を心の中で言語化=意識化するわけです。

そこで一気に“嫌”を通り越して“怒り”の感情が出てきたら、そこで『いま、怒っているな。。』と、その時の感情も客観的に観ていくわけです。

そこでのポイントは、痛み→嫌→怒り→喧嘩・・そういった条件反射的な“反応”=悪いクセを極力しないで、反応の流れを一区切りごとに、“落ち着いて観ていく”ということなんですね。

ここで行う訓練というのは、自分の体と心に起きる感覚・感情を観察=客観的に観ることですからね。プログラム化された条件づけられた“反応”をすることではないわけです。

ですから、その痛みの感覚と嫌悪の感情を与えたその原因となる、自分の足を踏んだ相手に対して、怒りの感情を“反応”として出してくるというのであれば、それは古いプログラムを相変わらず使っているということですから、当然NGなわけです。

「足を踏まれて痛い」のと「痛いから怒る」というのは、別々の問題ですからね。足を踏まれて痛い、痛いのは嫌、嫌だから踏んだ相手に怒るというのでは、単なる“反応”をしているだけですからね。そこでどうしても怒りたいのであれば、それなりの手続きをして欲しいんですね(笑)。

つまり、ホントならば、自分が怒る前に足を踏んだ相手にその理由を聞いて、その動機がたとえば『おまえの顔が気にくわないから、お前の足を踏んだんだよ・・』と相手がそう言うのを確認した後で『それなら、私は怒りましょう・・』というのであれば、手続き上としては、まぁ納得は出来ますけれどね(笑)・・

そのくらい、“反応”には流されないで、物事に対しては“落ち着いて”、意識を使って、よく観察して欲しいというわけです(笑)・・。・・フツーはそういった手続き無しで、条件づけられた“反応”として、自分の溜まった怒りの感情を表現しているだけですからね。

ですから、足を踏まれたのなら『足を踏まれた。。』そこでストップ!、痛みを感じたのなら『痛み。。』と、そこでストップ!出来るようになるまで、トライ&エラーをしながらでも、地道に訓錬を積んでいくことになるわけです。

ご案内の三点セットを学び、こういった“反応”しない訓錬をしていくうちに、面白いことには“痛み”といったものに対しても、それを闇雲に嫌悪するということではなくて、これは人間が生きていくうえで、生体保持の機能としても必要なものだ・・といったような視点から観れるようにもなるんですね。

ひとつの痛み=“苦”に対して、そのような観かたが出来るようになれば“しめたもの”で、少なくても足を踏まれたことで『なんだ、このヤロ~、俺の足を踏みやがって・・』といったように、痛み→嫌→怒り→喧嘩・暴力・・の芋づる式の“反応”として、条件反射的に『エゴ』と『怒りの感情』が出てくる、そういったことは無くなるんですね。

そのうちに、相手にもう一方の足を差し出して『あなたに足を踏まれたおかげで、ねむたい目が覚めました。よろしければ、こちらの足もどうぞ・・』と、そんなイエスもどきの、洒落のひとつも言えるような超意識レベルの心境にもなるのではないかと思いますよ(笑)・・。

・・まぁ、こういったようなアンバイで訓練が進んでいくわけなんですが、この訓練のコンセプトを一言で云うならば、『自分を客観的に観る』ということなんですね。禅では、これを「如実知見」といいますね。

これは字のごとく“ありのままに”見て、“ありのまま”に知るということです。まぁ、時には「観照」といったフレーズも使いますが、基本は『主観や感情をはさまずに、ものごとを客観的に観る』そういった訓練が主体になっているんですね。

これがご案内の、「止観」の“観”つまり“観察”主体の「観察瞑想」であるヴィッパサナーのやり方のひとつのサンプルなわけです。

ですから、意識的に行う「非プログラミング」をする場合に、その段階での大切なポイントである“反応”しないための訓錬といった処からみるならば、この「観察瞑想」や禅のノウハウを学んで、これを身に付けることは大変イイことではないかと思うわけです・・つづく