続々 『八正道』のお話

・・仏陀が『無我・アナートマン』を説く場合のやり方のひとつに、とにかく『無常』というフレーズを使うわけですよ。例えば、その定番は『無常だから“わたし”というモノは無いのだ・・』と、『無常ゆえに無我である・・』ということを説明するんです。

つまり、神羅万象この世のすべての物・事象・・我々の思考・考えにしても、意識・感情も、苦や楽といった感覚も・・とにかく、それらはすべて移り行くものである、変化するものであると・・。無常なんだと、まずそのように言うわけですよ。

そして『そういった変化するものを“わたし”とか“わたし”のモノだと言えないでしょう・・』と言うわけです。つまり、常に変化するものに対してそれが“わたし”だとか“わたし“の物だとか、“わたし”の考えだとか言えないから、そういったものを“所有”出来ないでしょうということですね。

ですから、そういった所有できないものに執着しても仕方ないでしょうということですよ。

そこで、『無所有・無執着』の重要性を説くわけなんですね。つまり“わたし”とか“わたしのもの”だと言って、そういった“わたし=吾我”に執着(我執)するから(エゴ・吾我が強く出るので)苦しむことになるんだと・・。

余計な苦を味わうことになるので、あまり“わたし”に執着するものではないと・・。そういった“苦”の原因にまで持っていくわけですよ。

そして、『そこに気が付くならば、あらゆる苦から離れることができますよ・・』ということを言うわけです。そういった順番でもって、『無我』の重要性を説いていくわけです。

早いハナシ、仏教では“わたし”というのは我々の『苦』のもとであり、それは単なる概念なんだと、『そこに気づきなさい・・』ということなんですね。

仏教の「無我」が難しいと言われるのは、やはりそういったように『“わたし”という概念は無い、つまりそれは“仮の名前”であって“わたし”というモノは無い・・』といったポイントなんだと思いますよ。

ヒトは夫々『“わたし”は 〇〇です・・』といったように、いわゆるアイデンティティを持っていて、それを大事なものとして、まぁ所有しているんですよ。

それは大切だから無くしたくない。それじたいが生きている証拠みたいになっていますからね。それらを“無”にしたくはない。それが無い=無我だと云われれば『いったい、わたしは何?・・』といったアンバイだと思いますよ。

・・実際、我々は日常で色んなキャラクターを作ってそれに成り切っているでしょ。例えば、ある時は生徒に成っていたり、ある時は先生に成っていますしね。

ある時は社員であり、出世して社長に成ることもあります。そして、家に帰るとお父さんとかお母さんとか呼ばれる。そのお父さんも生まれた時は“赤ちゃん”と呼ばれ、少し成長すると“坊や”と呼ばれる。

もう少し大きくなって“お兄ちゃん”と呼ばれるんですね。もっと年をとって“おじさん”ですし、いつか“おじいちゃん”と呼ばれ、そして死ぬと最後に“死体”と呼ばれるんですね(笑)・・。

・・どれが、ホントの“わたし”なんですかね? どれも、ホントの“わたし”というわけでは無い。仏教では『これらは、単なる概念・仮の名前なんですよ・・』と云うわけなんですね・・。例えば、誰かに肩を叩かれて『どうして、“わたし”を叩くのですか!?・・』と言って怒ったりするでしょ。

別に“わたし”が叩かれたわけではないんですよ。“肩”を叩かれただけです(笑)。しかし、本人は“わたし”といった概念をしっかり持っているから、この肩も“わたし”のモノだと所有物だというわけです。

更に、こんな“わたし”は偉いんだと、立派な人間なんだと、俺は特別なんだというわけです。『そんな俺様を、どうしてお前は叩くんだ!・・』ということですよ。

ヒトは夫々“わたし”は社長なんだ、“わたし”は子の親なんだ、○○なんだ、△△なんだ・・etc・・といった色々なアイデンティティで“わたし”を作りあげていますからね。 相手は単に肩を叩いただけなのに、そこに偉い“わたし”が出てきて怒りだすんですね。

しかも、肩にしても、もとをただせば単なる“チリ”でできているんですね。よく考えてみると、人間はチリの寄せ集めなんですよ。また、その“チリ”にしても所詮は『無限』からの借り物でしょ。

我々が所有できるモノは何ひとつも無い。チリひとつも無い(笑)。すべては無限からの借り物ですよ・・ということです。

自分の肩でも体でも、脳ミソでも、またそこから生まれる考えでも知識でも意識でも、何でも自分の所有物ではない。所有できるものではないわけですよ。ですから、その自分の所有でもない。また“チリ”でできている、そういった肩を誰かが叩いたとしても、どこに怒る理由があるんですか?ということなんですね。

ですからそもそも、あなたが怒る理由はひとつもないのですよ。そんなことで怒ったり、あるいは悩んだりすることじたい馬鹿馬鹿しいではないですか?・・ということですね。

仏陀の『無我』の裏に隠された、“わたし”は無いということは、そういったことなんですね。まぁ、チリ=“わたし”といった喩えを加えながらお話しましたが、仏教では『“無我”を理解するならば、あらゆる“苦”が減る、和らぐ、無くなっていく・・』というんですが、これはそういったことを云っているわけです・・つづく