色即是空的こころ・・❸

・・「観照」の意味合いというのは①主観を交えず,対象のあるがままの姿を眺めること。②冷静な心で対象に向かい,その本質をとらえ、意味を明らかに知ること。

③欲望なしに、ありとあらゆる存在から距離をおかずに、存在を愛(め)でる喜びや快楽を得ること。・・まぁだいたい、こういった処かと思います。

①と②については仏教の禅やその他の分野での観察あるいは「客観的に観る」といった方法論、主に“意識”を使った技法的な側面。③は①②から一歩進んで、その目的あるいは“心の境地”といった処までを言いあらわしたモノではないでしょうか。

そこで、ここでの大切なポイントというのは、あらゆる存在・現象を単に主観を交えないで・・とか、物事を観察したり客観的に観る・・というだけではなくて、そこから『喜びや快楽を得る』という処ではないかと思うんですね。

つまり、無限小から無限大のあらゆる方角に意識のカメラを動かして、そこにある存在と一緒に居るよろこびを味わう・・“いま”生きている幸福感や、“ここ”に存在(いる)快楽を実感する・・ということです。

「どうせ種をまいて育てるなら、花を咲かせて実を実らせなければ育てる楽しみがないでしょ・・」ということなんですね。種をまき育てる、つまり訓練・ノウハウとしてまず「八正道」、あるいはラエリズムで言う処の三つ巴ですね・・

ご案内の様に、①意識という道具を使った観察法をマスターするだけではなくて、②無限(空)の哲学と一緒に③慈悲(愛)の心も出来てこなくてはトータルな“作法”としては成り立たないわけですからね。

まぁ、『空(無限)の哲学』が光とすれば、『意識の訓練』は水、そして『慈悲・愛のエネルギー』がさしずめ肥料をまいたり、うまく育てるための“手間ひま”みたいなモノでしょうかね。そうやって花や作物を育てるように自分の心を育てていくわけなんですね。

まぁ、こういったように心を育てていくことをラエリズムでは『自己プログラミング』とも云うわけなんですが、そういったなかで「観照の作法」が“知恵”として身に付いてくるわけですから、云うならばこれは自己プラミングの卒業試験みたいなモノですよ。

まぁ、誰もこういった卒業証書を渡してくれるわけではないのですが、例の「三つ巴」あるいは「八正道」を実践していくうちに、自然に「知恵=生きる技」みたいなモノが身に付いてくるということだと思いますね。

・・ご案内のように、そもそもエロヒムが人間のDNA・設計図を描いた時の、その基本的なコンセプトは『快楽原則』だったわけです。人間はすべからく、DNAに描かれている「苦・楽のコントラスト」をベースに、ひたすら幸福を求め、『快楽原則』の道を歩いていくように創られているという事です。

遺伝子レベルで、楽しみたい・・楽をしたい・・一瞬たりとも苦しむのは嫌だ・・と、そのようにプログラミングされているわけです。我々の動機にしろ目的にしろ、必ずその裏には苦を避けて楽を求める『快楽原則のシステム』がベースに在るということです。

“一切皆苦”と云って仏教では『苦』が主役になっていますが、あくまで『苦は快楽の引き立て役』にすぎないわけですからね。主役は『快楽』なんです。例えば、これから何かをしようとする時に『・・さぁ、苦しむために○○しましょう・・』と言う人はいないでしょという事ですよ。

これから歩いて行こうとする時に、行く先々でもゴールでも苦しか待っていない、楽が全く無いような不幸の道だとしたら、誰も始めからそんな道は歩こうとはしませんからね。

そこで、苦・楽の道を歩くためには、どうしても“知恵”が必要になるわけです。

そういったわけで、我々が『快楽原則』によって快楽・喜びを感じるためには、苦を感じるシステムがある、そういった「苦・楽のコントラスト」プラス知恵を使うプログラムが基本にあるということです。

裏を返せば、エロヒムがこのような『快楽原則』のプログラムを我々のDNAにインプットしてくれたおかげで、『我々の心はいつでもどこでも、どのような些細なモノにでも、知恵を使ってそこに“快楽”を見出し、喜び・幸福感を味わうことができる』ということにもなるんですね。

まぁですから、冒頭の観照の③にあるように「エゴと貪欲さを出して所有欲と執着に走らなくても、つまり少欲知足で、しかもあらゆる存在と距離をおかずに、そこに居る存在と共に生きる喜びや感謝を感じる・・そういった柔軟な心持ちで生きていけるならば、これはホントに幸せなことではないですか・・」ということですね。

まぁ、使い古しのフレーズで云いますと・・幸福は“心しだい”・・その心を作るのは“自分しだい”・・といったところでしょうか。

つづく