色即是空的こころ・・❽

・・仏教の「八正道」は車輪のスポークに例えられているわけです。我々が知恵(覚醒)の道を進んでいくために使う車の八本あるスポークのうちの、最も大切な三本が「哲学(正見)・愛あるいは慈悲(正思)・意識(正念)」ですね。

この教えは仏教でもラエリズムでも一緒・・。そこで、こういった道具ってモノは日常の実践のなかで使って、役立つことによって価値があるわけですからね。例えば、我々に苦しみをもたらす色んな毒素があったでしょ?

「嫉妬・怒り・ごう慢・悲観・落ち込み・・etc・・」そういったものの原因と云われるエゴと言うものですね。仏教では、そのエゴ(‟わたし”という概念、無限の反対語・方便)をひとつの目安をそこにおいて、

それに対してどのようにこの道具を使っていくかという処が大切なポイントになってくるんですね。エゴというのは、意識が‟わたし”の周辺でしか働かないですからね。まぁ、自身の身の保全やそのための充足などにエネルギーを使うだけですから、だいたいは我々の日常のなかでは怒りとか所有欲とか、色んな貪欲さで出てくるわけです。

それは無意識のうちに、「反応」的に出るものだから、まずこれを意識のボリュームを上げることによって、よく観察しておかなければならないでしょ。これがまず一番のポイントの“意識を使う”こと、つまり「気づく・観察・客観的に観る」ということですね。

それから、反応というのはパッと瞬間的に出てくるので、どうしても怒り・貪欲のエゴパワーに圧倒されるでしょ。そこで、そのエゴパワーに対処するためには 「慈悲・愛のエネルギー」が必要になるわけです。

御案内のように、慈悲・愛のエネルギーは「受け入れる・認める・許す・愛する」といった心もようにしてくれるモノですからね。そして、そういった意識と慈悲の行き先を照らす哲学・考え方というものがなくてはならないわけです。

例えば、ご案内の「空の知恵(無所有・三輪空寂)」とか無常(変化)・無我・・etc・・この三つ巴(哲学・慈悲・意識)でもって、エゴエネルギーに対処していくといったアプローチなんですね。

このように 日常のなかの色んな場面で実践されるということです。つまりトライ&エラーしながらでも、 実践(訓練)して少しずつ前に進んで行こうってわけなんですね。

特にこの「反応」という厄介なものに対しては、この意識のグループである「気づき・観察・客観性」といったものがとても大切になってくるわけですから・・。

・・例えばいつもの例で、満員電車で誰かに足を踏まれる・・ ヒールのとがったやつなんかで。そうすると、踏まれる→痛いなぁ(嫌悪)→アタマにくるなぁ(怒り)→喧嘩・・etc・・こういった一連の「反応」が瞬時に出てくる。

これがエゴ(わたし)エネルギーを使ったごくフツーの我々のパターンでしょ。まぁ怒りが出た処で“ガマン”が入って、そこで止まれば上出来のほうなんですが、 それでも「怒り」までは、条件反射的に出てくる・・。

なぜなら、他人の足ではなくて「“わたし”の足」を踏まれたからなんですね。そこが、怒りが出た最初の原因というわけです。つまり、仏教では我々は誰でも“わたし”という強い概念・自我感を持っているから、それが自分の思うようにしたいといったエゴ(わたし)パワーを発揮して、怒り・貪欲・無知そういった毒を抱え込むというわけなんですね。

仏教では三法印といって、「無常・無我・苦」この三つが仏教の最大の特徴なわけです。そのなかで一番の難しいテーマがこの「無我」というものなんですね。これが、なかなかむつかしくて理解できない・・。

何しろ我・わたしは無いですからね。『ソレはないでしょ・・』といったアンバイだと思いますよ。他人に足を踏まれたというけれど、『これは“わたし”の足でしょ・・』といったわけだし、

踏まれて痛いといっても『“わたし”が痛いわけなんだからさ・・』と。だから『俺“わたし”は怒ったんだよ・・』といったぐあいに・・。どこにでも“わたし”が出てくる。

もちろん、それは思考(主観)・感情・欲望という道具でもって主張するしょ。“わたし”は自分の思いどおりにしたいわけで、当然思うようにならないと面白くない、怒るわけです。

そして、それらはいつも無意識に反射的(反応)に出てくるわけなんですね。足を踏まれて、あたかも他人の足を踏まれているのを観るようには観れない・・

ましてや『痛ッ、どうもおかげで目が覚めました』とか、イエスのように右足を踏まれて『もう一発こっちの左足もどうぞ・・』といったことにはならないでしょ(笑)。

そこで、いつでもどこでも、そういったエゴパワーに我々はやられてしまうわけですからね。これを何とかしたらどうなんだ・・といったわけで、“わたし”を学ぶということが、仏教でのメインテーマになってくるわけなんですよ。

はたして、その“わたし”というのは一体ナニ?なのか・・。その“わたし”を刺激する痛み・苦しみ そういったモノを自分で実際に納得するまで観察して、理解するということなんですね。

そのための、この“わたし”というものへの哲学的なアプローチ・・。そして「意識・気づき・観察・客観的に観ること」の実践・・。 慈悲・愛のエネルギーでの対処・・。この三つ巴が大切なポイントになってくる・・

そういったわけで、まず誰かに足を踏まれても、そこで単なる『痛み』といったように,あたかも他人の足を踏まれているのを観るごとくに対処できて、『アタマにくるなぁ・・』までいかないで、

その前にストップできるようであれば、まぁこの三つ巴(空の哲学・慈悲=愛・意識)がうまく協力して機能しているとみることができるのではないだろうか?

つまり『“わたし”が痛いんだよ!』といった“わたし”といった、強く出てくるはずの自我感が希薄になっているでしょ。 エゴパワーが薄いと、客観性が出てくるから『痛み』、そして痛みといったシステムへの認識が出来てきたということ

そして、闇雲に痛みといった感覚を突き離すのではなくて、この感覚は我々の命を守り維持していくためには大切な機能なんだといった理解ね・・。

この理解によって、痛みというものを逆に受け入れて、それがあることに感謝さえするといったことにもなるのね。それと共に、こういった痛み=苦は身体にも心にも起こるわけだからね

この「苦」が無くなれば楽になるわけだからね・・。まぁ、我々の遺伝子レベルでのシステムは、こういったように出来ているのか・・といったことも理解できる。これは、ひとえに自分の心と身体の観察による処が多いのね。

そういった感覚(痛み)と感情(怒り)のリンクの観察・・。そして一番は、知らずにこういった痛みさえ「受け入れる・理解する・許し愛する」といった心もようになってきているというのが、そもそも慈悲・愛のエネルギーが活躍しているということですからね。

大切なのは、慈悲・愛のエネルギーを積極的に作り育てることだと思うわけです・・。

ここで一句

エゴも苦も 慈悲の心で 成仏し