・・先日ひさしぶりに、札幌の会場で“空・くう”といったテーマでお話をさせていただきました。途中で「無の瞑想」を行う時間もいただいて、とても充実した集会でした。
まぁ、仏典のなかで仏陀が“空”を説いている場面といえば有名な処では、『スッタニパータ』の№1119ですよね・・。ひとりの学生が「死をのり越えるためにはどうすればよいのか?・・」といった質問を仏陀にするわけです。
そこで仏陀曰く、「・・常によく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空(くう)なりと観ぜよ。そうすれば死をのり超えることができるであろう。このように世界を観るならば〈死の王〉は見ることがない・・中村元訳・・」
・・そこでこの三行足らずの短いフレーズを観てみると、このなかには大切なポイントが三つあるのではないかと思うわけです。まず、最初の“常によく気をつけ”は、おなじみの「いつも、意識をしていること・・」そして
①「“自我(わたし)”の見解に固執する見解を打ち破る」②「世界を“空くう”と観よ」③「“死”をのり越えることができる」・・ご案内のように①は無我②は無常③は死を恐れないということではないでしょうかね。
・・ご案内のように、“空・くう”というのは“無限”ということです。“空”つまり無限ゆえに境界も無く仕切りも壁も無く、自他の区別も無いわけです。
ですから、“空”の立場から観るならば、自我(わたし)と他のモノや他人を区別するものは一切無い。なぜなら、「すべては“チリ=無限の物質”でできていて、その物質の名札に“わたし”とか“あなた”という名前が書かれているわけでないっしょ・・」ということです。
“空”においては自他の区別が無いゆえに、そもそも自我・エゴというモノは無いわけです。空つまり無限には、“わたし”というものは無い・・ここで、あの有名な『無我』といったフレーズがでてくるんですね。
すべては、無限の時間と空間のなかで無限の一部として永遠に変化しながら、ただひたすらカタチを変えられながら存在し続けるだけですよということで・・これが『無常』。
我々がたまたま地球のうえにこうして居るということも、エロヒムという知恵(科学)を持った生命体によってその“無限の物質・チリ”が集められ、練られて遺伝子といった設計図によって心と体の機能が与えられて活動している・・
そのような“チリ”のかたまりのことを我々は生命体と呼んでいるにすぎないということなんですね。まぁ、このような永遠なる時空の中での知的生命による生命創造の循環をあえて『空・くう』と定義させていただいたわけです。
そういったわけで、仏陀にしても3000年近く前にも、この真実を“ヘビ”から教わったわけでして・・この内容を彼は当時の人たちに、無我とか無常といったフレーズを使いながら、夫々の理解力に合わせてそれなりに解りやすい言葉とたとえ話でもって伝えたのではないでしょうかね。
まぁでも、何度も言いますが“空”の基本は「人でも物でも、この世界のありとあらゆるものは“チリ=無限の物質”で出来ている」ということですからね。
つまり、我々は無限の循環=変化の中でその“無限の一部”として、色んなカタチでもって生きているわけです・・とても謙虚な、永遠の‟チリ”として・・
例えば、現在の自分の脳ミソの細胞を形成している物質は、1000年前にフランスの田舎に居た農夫の腕の細胞を構成していたものかもしれないしね。
また、ある時は100年前の知床の森に生息していたヒグマの体の一部だったのかもしれないわけですよ・・無限の物質に‟死”というものはないですからね・・。
それらが時を経ながら、巡り巡って現在の自分の脳細胞の一部になっていたり、自分の「体と心の設計図である遺伝子・DNA」を構成している物質だったりするわけです。
仏陀にしても、弟子など限られた知恵者に対しては、このようなたとえ話を織り交ぜながら“空”の話をしたのかもしれませんね。そして仏陀の死後、彼が語ったこういった「生命循環のたとえ話」が時代を超えて人から人に伝えられるんですね。
いわゆる輪廻転生みたいにですね、誰々の前生はフランス人の農民だったとか知床に居た熊だったとかね・・そこで後々になって、まぁ単なる永遠なる物質の循環のハナシが、人々の無知ゆえに個人の前世物語みたいに誤解され、たくさんの話が創作される。
そして、当時の不滅の霊魂といったモノの信仰に尾ひれがついて、おかげで仏教以前にあった輪廻転生といった迷信が後に仏教にも取り込まれて、今日に至るまで長々と伝わってしまうことになる・・
そういったわけで、何度も云うようですが空・無限の立場から云うならば、この世のあらゆるモノ、目に見えるモノから目に見えないモノ、すべてのモノは無限の物質とエネルギーとして永遠に変化しながら(死なずに=無くならずに)存在しているわけです。
まぁ今なら、おそらく仏陀は質問した学生にこのように答えるのではないでしょうか・・『ヒトの死というのは何も怖いものではないんですよ。あなたは無限からやって来て、無限のなかで生きて、そして無限に還って往くだけなんですからね。あなたは無くならない、つまり始めも終わりも無くず~っと無限・・あなたは無限そのものなんですよ・・
ある時期にあなたの体と心を形づくっていた無限の物質が、その役目を終えると、まわりの物質とエネルギーと溶け合い、そのエネルギーと物質は今度は愛すべき未来の子供たちや他の動物・植物・水・空気・惑星・・とカタチだけが変化し存在し続ける・・
そこには‟死”というものはない、あなたは生死を超えて、‟空・くう”という永遠の循環のなかで無限に存在し、無限そのものとして在り続けるわけですから・・そういった無限意識の目線で物事を観てください・・』
さらに続けて・・『無限というのは金太郎アメといっしょで、無限のどこを切っても‟いま”が出てくるものです。永遠に‟いま・いま”の連続なんです・・無限を生きるということは「いまを生きる」ことと一緒・・。
ヒトはいつ死ぬか誰も分からないものです。私だっていつどこで死ぬか分からない・・しかし分かっていることは、あなたが“いま・ここ”で生きて在るということ、それだけは確かなわけでしょ・・
いつ来るか分からない死をアレコレ考えることよりも、今日一日を楽しく笑って、幸せな気持ちで過ごすようにしたらどうでしょうか・・』と。。。
ここで一句
輪廻とは 不生不滅の ‟チリ”と知り