続 無限の証明・・

・・『般若心経』の一節に、「・・“空・くう”においては悟りというものが在るわけでもなく、また無いわけでもない・・」といったようなフレーズがあるわけです。在るわけでもなく無いわけでもないというのは、一体どういうことなのでしょうかね。

まず、‟空・くう”の定義は‟無限”ということですからね。つまり空とは時空の無限性と科学的な生命創造の無限性のことですから、一言で云うのなら別に「無限」でいいわけです。これを数字で表すと「0・ゼロ」ですね。

数学で使うゼロの概念はこの「空・シューニャ」からきているともいわれています。そしてご案内のように、0・ゼロは「無限に在る」という意味と同時に「無い」をあらわすモノでもあるわけですね。

ここで仏陀は‟空・くう”と言っていますが、例えばこの場面において空の代わりに0・ゼロを使ってみると面白いことになるんですよ。

つまり、ゼロは‟無限”でもあり、また‟無”でもあるわけですから、仏陀曰く「0・ゼロゆえに悟りが在るわけでもなく、また無いわけでもない・・」といったことにもなるんですね、少しややこしいですが(笑)・・

0・ゼロにおいては悟りが在るとも言えるし、また無いとも言える・・

これは、ご案内のように我々が日常でフツーに使っている云わば方便の「ゼロ=無い」と、空の本当の意味である「ゼロ=無限に存在する」といった両方の意味合いがダブって使われているといったことになるわけです。

そこで、このような景色を少しイメージしてみると、‟無”が限りなく‟空=無限”にアプローチしている様子が観えてくるんですね・・

無が無限のドアを開けて、そこから静かに入っていく・・無はさらに無限に引き寄せられていき、しまいにはありとあらゆるモノを引っ張り込んでしまうブラックホールのような、無限の大きな口のなかに吸い込まれていく・・

こういった場面を観てしまうと、無限が無と同じだと言われても、まぁ仕方ないかなぁ・・と思ったりもするわけです。

真実というものは、すべての方便を呑み込んでしまう。そして、方便が真実の一部になったりもする。ある時、無は無限のなかのある一部の場所になったりもする。

例えて云うならば、レンコンが‟無限”であって、レンコンの穴が‟無”みたいなモノですよね(笑)・・穴もレンコンの一部になっていて・・実はその穴のなかにも目には見えないレンコンがあって・・さらに〇△#□@・・∞・・

こういった状況のなかで、まぁ日常での様々な方便のなかにも無限のシッポが観えたりもするというわけです。

少しだけ無限を意識して、少しだけ無限を感じるだけで、無限の扉はどこにでも在る、それこそ無限に開いているわけですからね。無限とはそういったものなんです。

まぁ、このような魔訶不思議なる無限のなかへと、‟悟り”もいや応なく引っ張られていく・・ちなみに、この悟りというのもその意味合いとしては、まず個人レベルでの人間の持つ知恵の極みであるとか、最高の幸福な心境としてあるわけです。

そういったモノが、一個人から外に出てしまう。そこで、そこから少しだけ無限に近づいていくと、その『悟りという‟大いなる知恵”』は成長して‟科学”と名前が変わるんですね。

そして、その知恵の実が熟してくると今度はあらゆる人間に奉仕する科学の黄金文明がやってくる。大いなる方便の開花といったわけです。

つまり、個人レベルの悟りがその場所に止まっていないで、社会レベルでの悟りというものになっていくということですね。エロヒムに云わせると、ホントの『悟りの境地』というのは実はこの事なんだというわけです。

知恵や幸福というモノが個人レベルから社会レベルへと、人類全体へと広がっていく・・惑星レベルにまで及んでいくというわけなんですね。さらに銀河レベルを超えて、無限レベルの知恵になってしまう(笑)・・

まぁですから、限りなく無限にアプローチしていくとなると、どうしても‟空”においては悟りが在るわけでも無いわけでもない・・といったような表現になるのではないでしょうか。

・・たしかに、悟りの境地=科学の黄金文明といったモノであっても、所詮は人間が創り上げたモノにすぎないわけですからね。作られたモノはいつかは滅びていく運命にあるわけです。

この瞬間にも無数の悟りの境地が生まれ、そして滅しているわけですし・・まぁ無限においては、悟りとか意識や愛なんてモノは在っても無くても、どうでもイイようなモノでしょうからね(笑)・・

それでも、知恵というのは無限に大きな世界から小さな世界のなかで、無限の過去から使われてきたし、またこれからも我々は無限へアプローチするため幸福に生きていくためには、この最高の道具を大いに使っていく事になるわけですからね。

まぁそういったわけで、究極の『悟りの境地』というのは、エロヒムが云うように『知恵=科学の奉仕によって、人間の生老病死といったあらゆる‟苦”から解放された黄金文明』・・そういったモノで間違いはないと思いますね。

とにかく、悟りとか意識とか慈悲・愛とかそういった人間の幸福に関わる知恵といったモノは、何であっても一個人の中にとどまるモノではないんですね。

それは個から社会、惑星へと広がっていく性質のモノであって、無限につながっていくモノ。それは限りなく無限といった真実にアプローチしていく偉大なる方便だと思いますよ。

しかし、残念ながらエロヒムに言わせると、つまり我々が生きている地球の今の状況というのは、人間のコントロールされていないエゴと攻撃心が生み出す原始的な所有制度と貨幣経済のなかでウロウロしているようなんですね。

我々は無知で、いつの時代もどこの場所でも戦争があって、殺戮と環境破壊、貧困さらに飢餓・病気などの“苦”の海の中でアップアップしているわけですからね。

そういった状況にある地球からそんなに離れていない処で我々を見守ってくれている彼らの心中を察すると、なにかこう居たたまれないような複雑な心境になってしまう今日この頃ではあります・・。

西暦1975年10月7日、エロヒムから二回目のメッセージが与えられた記念日に寄せて。。