色即是空的こころ・・⓱ 

『時空の無限性と生命創造の循環』を‟空・くう”と云ったわけですが、仏教で‟空・くう”はシューニャ(サンスクリット語)で「実体が無い・空っぽで何も無い・・」といったニュアンスでした。

そして、その‟空・くう”=「空っぽ」という意味合いからなのか、数学で使うゼロ・0の起源にもなったというお話をしました。つまり、「空・くう=ゼロ・0=無い」という意味で使われてきたということですよね。

そこで、‟空・くう”というのは「空っぽで何も無い」わけですから、古人はその概念に人間のネガティブな感情である「空しさ(虚しさ)」を充てることになるんですね。

このような‟空・くう=空しい”といった状況は、仏教の専売特許というわけではないんですね。聖書にもたくさん出てくる。有名なところでは旧約聖書『伝道の書(コヘレトの言葉)・第一章~第三章』ですね。

「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい・・人が動物にまさるところはない。すべてのものは‟空・くう”だからである・・いま在るものは、すでに在ったものである。後にあるものも、すでに在ったものである・・」というのがあります。

この言葉について、エロヒムはこのように解説するわけです。『・・人間も動物も(遺伝子レベルで)創造されたものなので、それ以上でもそれ以下でもない・・ある者が滅びればある者が交代をするだけである・・この創造のサイクルは無限に続いていく・・』と・・

このように真実の‟空・くう”というのは、‟時空の無限性”だけではなく、知的生命体による無限の‟生命創造の循環”であることを教えてくれています。

『我々の目には見えない小さな世界から、逆にあまりにも大きくて目に見えない世界まで、限りのないダイナミックな生命創造で満ちあふれている・・決して空っぽで、何も無いということではない。

これは宇宙のありのままの姿であって、真実そのものである。それゆえ、真実を空しい(虚しい)とか悲しいといった感情で表されるものではないのだよ・・』と、そのような真実をよく理解しなさい・・と。

・・しかし何度もご案内のように、空・くうというと「色即是空」でおなじみなんですが、‟空・くう”は原語‟シューニャ”「空っぽで何も無い」という意味であり

同じように、聖書のなかでは‟空・くう”の原語はヘブライ語の‟へベル”で、「息」とか「風」といった意味として理解されているわけなんです。

まぁつまり、古人でも我々でも真実の‟空・くう”の理解がないならば、「息や風」というのは目に見えないので、当然そこには「何も無い・・空っぽでしょ!・・」と思うのではないでしょうかね。

それゆえ「空っぽ」なので空しい・・「息や風」のようで空しい・・と。やはりこの場面でも、コヘレトの口から‟空・くう”=空しいといった感情的なセリフが出てくる・・。

確かに見えない世界というのは、言葉を変えて云うならば数字の‟ゼロ・0”ですからね。まぁご案内の‟0・ゼロ”というのは、「無限に在る」という‟真実”の部分だけではなく、「無・無い」といった‟方便”の部分と、その両方の意味があるわけなんですね。

しかも、無限も無も両方とも人の目には見えない。そこで、無限の何たるかが解らない筆写人にすると、どうしても「‟0・ゼロ=無い」の意味でしか訳すことができなくなるのではないでしょうか?

それゆえ、‟空・くう”に対して身近にある「息・風」といったものをあてて、そこでネガティブな「空しい、虚無」といった感情的なニュアンスでもって表現してしまうことになる・・

ちなみに現在でも、この「へベル=息・風」が英語に訳される場合、無意味(meaningless)、無益(futility)、謎めいた(enigmatic)、無(nothing)といったように、‟空・くう”は相変わらず真実とは遠く外れた、とてもネガティブな意味合いの翻訳になっているということです。

確かに、仏教でいうように人生は昔から四苦八苦なわけで、今更ここで言うまでもなく我々は現在でも生老病死といった苦(パーリ語:ドゥッカ=思うようにならない、満足されないこと)の海でアップアップしていますからね。

まぁそこで、我々の人生を語ろうとすると、やはりコヘレトのように『空しい・・虚しい・・』といった感情的なニュアンスになってしまうのかもしれませんね。

・・しかし、そうはいっても千変万化の‟空・くう”といったドラマのなかで、我々が空(虚)しく生きるのか楽しく生きるのか、これも我々の考え方・生きかた次第なのではないでしょうか?

我々は生死の無限のサイクルの中にいますが、無限という存在は意識も感情も、目も耳も口も有るわけでも無いわけでもない・・。我々が幸福に生きようが滅亡しようが、我々には全く興味もなく無関心で存在しているわけですからね・・。

そういった無限に対して、誰かが何かを求めようが、問いかけようが、期待しようが、永久に返事をすることも無い・・

もしも、そんな無限からの答えを待ったとしても、無限の時間を待たなければいけわけですから、それを思うと確かに空(虚)しくなるのも解らないわけではない・・

しかし先人たちは、日常のなかで瞑想のなかで、そういった摩訶不思議な無限に積極的にアプローチして、その無限の在り様から幸福に生きるための知恵を導きだして、彼らの人生に大いに役だたせてきたのも事実なわけです。

それらは「空・くうの知恵」としてご案内ですが、エロヒムも我々が生きていくうえで「無限を基準にした考え方」が何よりも大切だと云っていますよね。

例えば、無限の性格・在り方というのは何かと何かを仕切る壁や境界線が無い、束縛もない、それゆえ‟自由”であり‟平等”でもあるといった考え方がそこから導かれるわけです。これは生き方の最も基本的な考え方ですよね。

ですから、ホントは人種差別も国境線もいらないわけでしょ。さらに、無限ゆえに自他を仕切るモノも無く自由なので、何かを所有する必要もない‟無所有”といった処にスポットが当たるんですね。

所有する必要がないので所有制度や貨幣制度なんかもいらない。モノでも何でも個人や国で独占所有すること無く、在るものは何でもみんなで仲良く使えばいいんですからね。

そして、慈悲・愛の行為やプレゼントをする場合は相手の幸福を願ってするモノですからね。別に「わたし」が・・でなくてもいいわけです。そこで「誰かが、誰かに、何かをする」この三つにこだわらないということ・・

つまり仕切りや壁がない、執着のない‟空・くう”の心で行う・・といったご案内の「三輪空寂・さんりんくうじゃく」の価値観、これも無限の性格から引き出してきたものですよね。

まぁ、そういったエロヒムから歴代の預言者を介して我々にたくさん教えてくれた知恵を使って、無限の一部である他の人々と調和しながら、皆が楽しく幸福に暮らしていくこともできるわけでしょ。

そして何よりも、仏陀が「悟りの境地」と称した、幸福を絵に書いたような楽園の惑星に住むエロヒムという大先輩であり、まぁ我々にとっては親のような人々がいるわけですからね。

我々が更なる幸福をのぞむのであれば、一日も早く彼らにこの地球に来ていただくという事ではないでしょうか。

彼らも、我々が歓迎してくれるならば、ぜひ再び地球に戻ってきたいと云っているわけですからね。

そして、彼らが得た知恵・幸福に生きるためのノウハウを直接彼らから教えてもらう、知恵を貸してもらうのが一番なのではないかと思うんですよね。

知恵という遺産はそういったように、無限の時空のなかで代々ずうっと伝授されてきたわけです・・子が親に習うのは当たり前のことですから・・。

まぁそれにしても、とりあえずはこのコロナが終息して世間が落ち着いてからということですかねぇ・・。

ここで一句

空しいと 言えどもやはり 空・くうのなか