色即是空的こころ・・⓴

・・ご案内のように、『無限とは考えるモノではなく、感じるモノである・・』といった定番のフレーズがあるんですね。

もちろん、この‟感じる”というのは、‟いま”感じるということです。感覚は速いからスパッと‟いま”をとらえられる。

反対に思考は遅いですからね、色々と考えている間に‟いま”がどんどん過ぎ去っていくでしょ。まぁ、“いま”というのは無限ですから過ぎ去りはしないんでしょうけれどね・・見失ってしまう。ですから、考えているヒマはないんですね。

例えば、瞑想の訓練では余計な考えを排して、‟感じ”たままをつなげていくわけですからね。まぁ、無限というモノは‟いま・いま”の永遠の連続ですから、金太郎アメと一緒で、どこを切っても‟いま”が出てくるといったわけです・・

そういった‟いま”を見逃さず、そこにスポットを当てる。そして、誰かが後でその実感を言葉にしたり、考えたりすることになるわけで・・『無限を感じた・・』とかね『わたしは在なかった・・』とか言うんですね。

そして、先人たちの「一期一会」とか「いまを生きる」といったフレーズがあるように、昔から日常の中であるいは瞑想のなかで

その大切な‟いま”といった場面に意識を集中して、過ぎ行く(実感した)無限の断片を観察しながらも、そこで感じたモノを切り取って概念にしたり、一つの知恵として人生に活かしてきたわけです。

そういったわけで、この時空を超えた‟いま”という扉を開いて、そのなかで無限のシッポをつかむ!といった処が第一のポイントになるわけです。

そして‟無限を感じる”二つ目のポイントは、『‟わたし・我”を忘れる』という事になるのではないでしょうか。

日常の中で色んな‟わたし・我”が出てくるんですね。例えば『オレが、ワタシが・・』といって、強い欲望や感情を前面に押し出して『‟エゴ”が強いなぁ・・』と、ひとから言われるような‟わたし・我”もあるだろうし

火事の場面で、早くそこから『逃げろ!』と警報を発動したり、まちがって海に落ちた時に無意識に手足をバタつかせて、自らを守ろうとする‟わたし・我”もある。

あるいはウィルスのような外敵が体内に侵入した時、それを攻撃する免疫システムといった‟わたし・我”もいるわけです。

そういった色んな場面で出てくる‟わたし・我”というのも、そもそもは我々が生きていくために必要なシステムですからね。

生命を守り維持していくために、生きるためにエロヒムが人間の遺伝子にプログラミングした大切な機能なんだと思いますよ。

・・しかし皮肉にも、そういった‟わたし・我”がいない時、自我感が希薄な時、あるいは生命が危険な時に警報を鳴らしたりしていない時にこそ、無限の扉が開くことになる・・。

確かに、危険を感じた時や苦しい時・痛い時というのは、‟わたし・我”に一番スポットが当たる時ではないでしょうかね。

お腹が痛くて七転八倒している時なんかは、自分のことで精いっぱいでしょ。(俺の・わたしの)この痛み・苦しみを何とかしたい・・世間やひと様の事なんかはどうでもイイんですね。

‟無限”なんて感じている場合でない・・今は‟わたし・我”のことで頭がいっぱいですからね。苦しい時こそ、人間はエゴイストになるものですよ。

余計な苦・痛みが人をエゴイストにするし、さらにエゴイストが世間の苦を作ったりするモノです。それにひきかえ、楽しいとき快楽のなかに在るときというのは‟わたし・我”を忘れているでしょ。

例えば、「無我夢中」になってゲームをしている時とか、好きなサッカーチームを応援している時とかね。

夜空の月をながめたりしていて、その月明りのなかで満開に咲いている桜の木なんかと一つになったような・・そんなイイ気分になることもあるでしょ。昔からのフレーズで『月を見れば月になり・・桜を見れば桜になる・・』といったアンバイでね・・

ちなみに、至れり尽くせりの竜宮城に居る浦島太郎を想像してみると、そのとき彼は楽しくて幸せすぎて、‟わたし・我”なんかはどこかに行っているわけですよ。

しかし、そんな幸福の極致で時間をわすれて遊んでいる浦島さんも、あるとき竜宮城から世間に戻ってこなければいけなくなる・・どれだけの月日が過ぎたことか・・

それまでの悦楽・歓びがすべて消え去り、白髪の年を取ったあわれな自分を見つける・・苦しみが多い厳しい現実の世界に帰って来て愕然とするわけですね・・

「我を忘れて」いた彼も、そこではじめて「我・われに帰る・・」ということになる・・。

・・まぁそういったわけで、「わたし・我」なんてモノは、自らの生命を守るためにはとても大事なモノには違いないのですが、無限を感じるには邪魔くさい、要らないモノでもあるんですね。

仏陀が『無我だ、無我だ・・』といってこれが仏教の三法印になっているのも、解るような気もしますよね。

あまりにも楽しくて、気持ちよくて、大笑いして・・幸福な時には誰でも‟我・われ”を忘れているものですよ。決して、辛くて苦しくて我・われを忘れるわけではないんですね。

こういったように、無限を感じるということにおいては、まず‟いま”というモノが第一のポイントであること、それと「我を忘れる」というのが大切な処になると思うんですね。

ちなみに、脳ミソの右部分つまり右脳のどこかの場所に在る機能が、どうもそういった‟我・われ”を忘れさせるような役割を果たしているみたいなんですね。

つまり人間の脳には左右別々の役割があって、左脳には自分と他のモノを別々に認識して考える、「私が存在・いる・・」といった認識機能があるというわけです。

それと、左脳は主に「言語で考える」機能と、過去と未来を結び付けて情報を処理する機能があるらしいんですね。

つまり「私の存在認識」と思考・言語化をする、そして‟いま”の認識よりも「過去と未来」を把握する役割があるということ。

それとは逆に、右脳には言語ではなく主に映像で感覚的にとらえる働きがあること。さらに、それを「‟いま”」という認識でとらえる働きがあって、「わたし・我」の認識が無い、つまり自他を区別するといった事をしないということです。

例えば、自分と他のモノとの一体感を味わうとか、すべてに境目が無くあたかも宇宙と溶け合っているいるといったような平安と幸福感を起こす・・そういったような感覚になる働きが、どうも右脳側にはあるということなんですね。

というのも、脳溢血をした脳科学者で有名になったジル・テーラー博士が、かつて自分が脳出血した状況を自ら観察した処によると、やはり左脳が脳出血で機能不全を起こしたおかげで、「我を忘れる」といった特別な経験をしたようなんですね。

つまり、左脳が行うべき機能が出血によって損なわれているわけですから、右脳側の機能ばかりが際立つ状態になったわけなんでしょうからね・・また、あるいは脳の他の場所にある健全な部分が機能を発揮したのか・・

とにかく、実際にテーラー博士が体験したその時の様子というのは『・・自他の区別のない、宇宙の全てと溶け合った一体感・・全くストレスフリーの瞑想の極致にいるような幸福感を味わいました・・それは一時的ではあっても、あたかも天国に居るような安らぎでした・・』ということです。

そういったわけで、‟無限”を感じる事と脳機能との面白いつながり・・興味のある処ではあります。

ここで一句

われ在りて 何でおのれが 桜かな