続 色即是空的こころ⓬

ponさんへ、『無限意識』のあれこれについて・・追記・・

ご案内の『般若心経』のなかにある「・・空中・・無意識界・・」といったフレーズですよね。この意味は「空・無限の中においては、意識があるとか無いとか、そういうモノではないのですよ・・」ということなんです。

これもご案内の、かつて仏陀がエロヒムの『不死の惑星』に四十九日滞在して、その惑星社会を「本当の悟りの境地」と評したわけです。

そして、そういった社会=悟りの境地の中で生活しているエロヒムが空中=無限において・・つまり自分が永遠の‟チリ”であることを知ったがゆえに・・あるがままに人生を楽しんでいるわけですよ。そんな彼らの心境を表わしているフレーズだと思いますね、この一節は・・

この場面を例えるなら、子供が遊園地とか砂場で泥と砂にまみれでキャッキャッと言いながら、我を忘れて遊んでいる時のようなものでしょうかね。子供は泥や砂が汚いとか綺麗とか、人目がどうとかそんなことはお構いなしに遊ぶでしょ。

まぁ、これを仏教的に云うと、物事に境界線を引かないで・・無分別で自由に遊んでいるということですよね。つまり何かと何かを分断する我(わたし)がいない・・無我あるいは無心とか空(無限)になり切っている・・というフレーズがこういう場面でよく使われるんですね。

空中無意識・・つまり、あたかも我・エゴが無い無限のようなっているわけですから、無心になって遊んでいる時には無限そのもの・・ですから意識があるとか無いとか、悟りがどうとか、そんなことはどうでもイイでしょ・・ということですよ。

こういったような感じなんですね、無限意識について言葉を使って表現すると・・少しヤヤコしくなりますよね、見えない意識を見える文字にしようとするとね(笑)・・

別の言いかたをすると、川を渡るために使う意識といった筏・いかだはもう要らない・・単なる道具として使われてきた意識の役割を終えたわけです・・そして、子供の心はもう向こう岸に着いて、無限意識という楽しい遊園地に居るわけですからね。

宿題も用事もすべて終わったら、あとやることは何もない、ただただ遊ぶだけ・・といった処ではないでしょうか。

こういった子供が無邪気に遊んでいる光景は、仏教では三昧(サマディ)つまり悟りの心境を表わすフレーズとしてよく使われていて、水墨画の掛け軸なんかにも描かれているでしょ。

禅なんかでは「遊戯三昧・ゆげざんまい」といって、修行も終わり「観照の作法」も身に付いて、日常も瞑想もおなじになっている・・まるで自由に遊んでいるかのような境地で、日々を過ごしているということですよね。

長いあいだ練習をして、技を磨いてきたミュージシャンが、今まで苦労して覚えてきたモノを(身に付いているので)全部忘れたかのように、今ではチャーリーパーカーのように(意識しなくても)自由自在にアドリブでもって遊んでいますよ・・といったわけです(笑)。

まぁ、ゴチャゴチャと色んな例えを使って言いましたが・・つまり、この「観照の作法」というのは①空・無限の哲学②意識③慈悲・愛のエネルギー・・この三つ巴のコラボによって時間をかけて育てられ出来上がるわけで、このアプローチは仏教もラエリズムも同じでしょ。

そしてここでの一番のポイントは、この段階で無限を知るかどうかなんですね・・ここが別れ目で、私は永遠の‟チリ”なんだと・・真実の空・無限というモノをよく知らなければ、観照の作法を身に付けるために今まで気付きとか観察するための道具として大切に使われていた意識は、単なる重宝な道具として終わってしまうことになるんですね。

しかし、空・無限の真実を深く知ることによって意識はそこにとどまらず、更にレベルアップして‟無限意識”の働きをすることになるわけですよ。まぁ、それは云うならば限りなくエロヒムに近い目線で物事を観るようなモノ・・といったことになるんだと思いますよ。

しかし、この高められた意識は無限小から無限大まで幅広く活躍する機能を持っているにもかかわらず、残念なことに日常でほとんどのヒトは使うことが無いでしょ・・誰でも無限を意識する能力は持っているんですけどねぇ。そこで、まぁ意識を超えた意識という意味合いも含めて、これをあえて『無限意識』と言ったわけなんですね。

そういったわけで、いかに空・無限の真実を知ることが大切なのかということなんですね。例えば、自分は永遠の“チリ”なんだと無限そのものなんだと・・無限大の‟チリ”であり無限小の”チリ”なんだと本当に理解するならば

その無限小の“チリ”の処まで無限意識のカメラが動いて、ズームインしてくれるわけですから。そこで、同じ仲間として色んな‟チリ”と一緒になって遊べるじゃないですか・・(笑)。あるいは、カメラを無限大にまでズームアウトして、あたかもすべてを‟無”として観ることもできるでしょ・・

ですから、せっかく観照の作法で極めた意識なのですから、意識のボリュームの目盛りを、無限意識にまで上げてもらいたいんですね。そのためにも、まずは『自分は無限から生まれた永遠の‟チリ”である・・わたしは無限なんだ・・』ということを是非理解して頂きたいと思うわけです。

歴史学者のJ・ホイジンガ氏いわく・・人間の文化は、‟遊び”の精神のなかで成立した。遊びは人間の本質であり、最高の快楽である・・とは正に名言ですよ。ヒトは遊ぶために生まれてきたようなモノじゃないですか?。

我々の遺伝子レベルでのプログラムは、そもそも「快楽原則」のシステムでもって、創られているわけですからね。遊ぶ理由なんかは無いんですね、これは本能と一緒ですから・・

まぁ、とにかくヒトは遊んでいる時に一番幸せなんだ・・といったわけで、仏教の「遊戯三昧」に限らず古今東西、どこでもこの‟遊び心”といった処に幸福のスポットを当てているのがよく解かりますよね。

さらに近年の『遊び学』における遊びの第一の定義は、「自由」である事と「面白がる」という事になっているらしいんですね。

それもそのはず「空の知恵」で何度もご案内のように、自由も遊びも無限から生まれたひとつの知恵なんですね。人間を幸福に導く最高の知恵だという事ですよ。

つまり、無限というモノにはその性格上あらゆる壁や境界線が無い、一切の束縛も分別も無いわけですから、‟自由”だということです。そこで、自由といった知恵の空間から、ただ面白いからする・・といった‟遊び”の精神が生まれるんですね、無心になって泥遊びをする子供のようにですね・・。

そういったわけで、我々も「人生は遊びだ・・」を哲学の一本の柱にして、物事に境界線を引かない偏った観方をしない・・深刻さが無いおおらかなアプローチですよね。そういった何でも「面白がる」といった‟遊び心”を、日常で使う意識の門番にしておくとイイのではないでしょうかね。

そうすると無限意識のスイッチが入りやすくもなって、限りなく無限目線で物事を観れますから、幸せな気持ちで無限と一緒に居られる機会もより多くなるのではないかと思うわけですよ・・

それには、何度も云いますが『わたしは無限の一部だ、‟チリ”なんだ・・いつも無限とひとつ・・わたしは無限だ・・』と単なる知識としてではなくて、心から納得してですね(笑)・・

まぁ、そこで遊び心さえあれば、無から無限まで(笑)・・遊びなんかはどこにでも転がっている、すべては遊びだということですよ・・。

そして、‟遊び心”のこの‟面白がる”心境というのは、わざわざ幸福を他に探しに行くというのではなくて、観照的なアプローチですから、どちらかというとまぁ「行き当たりばったり」の‟いま・ここ”に在るモノを楽しむといった・・‟いま・いま”目線のスタイルでしょ。

余計な期待もこだわりもなく、何でも楽しんじゃいますよ・・といった心持ちだからね。面白がる気持ちのイイ処は、やはり怒りの感情と執着心の出番があまり無い処でしょうね・・あれがダメだとかこのようにすべきだとかね・・若いとか年だからとか、上手い下手といった事にも邪魔されない・・

善悪もあいまいで優劣の基準も無いから嫉妬も起こらないし、勝ち負けや報酬にもこだわらないし、何度やってもイイから失敗だからと言って悲観することも無いし、落ち込むことも無い・・それでいて好奇心は無くなっていない・・

しかも、‟面白がる”ことの基本は遊びの精神ですから全く深刻さはない・・余計なことは考えないので決まった答えも無い、着地点も目的もどうでもイイですし、途中で休んでもイイし、やめてもイイですしね。まぁ、そういったかなりの無限路線・・ゆる~い感じですよね・・。

そういった、云わば究極の‟イイ加減の”気持じゃないですか。まぁそんなアンバイで・・まずは遊び心で、世間の事でも自分の事でも、無限意識でズームイン・ズームアウトで観てみたらどうですか・・ということじゃないですか?(笑)

エロヒムも「いかなる形であれ、他に害を与えない限り、遊びの快楽は肯定される・・」と言っているくらいなんですからね・・。

ここで一句

エロヒムも 遊び心の 自由人

{10月7日:エロヒムの記念日によせて}