続 色即是空的こころ⓬

PONさんへ、『無限意識』のあれこれについて・・追記・・

ご案内の『般若心経』のなかにある「・・空中・・無意識界・・」といったフレーズですよね。この意味は「空・無限の中においては、意識があるとか無いとか、そういうモノではないのですよ・・」ということなんです。

これもご案内の、かつて仏陀がエロヒムの『不死の惑星』に四十九日滞在して、そのあらゆる‟苦”から解放された究極なる幸福の楽園・・愛と慈悲のエネルギーで出来あがった母胎・・そういった中に生きる彼らの住む惑星社会を、本当の‟悟りの境地”と評したわけです。

そして、そういった愛・慈悲と科学の黄金文明に人間がしっかり守られている社会、つまり『悟りの境地』の中で何不自由なく生活している不死なるエロヒムが・・

空中=無限の中において、つまり無限意識の極みにいるがゆえに・・空になり切って、あるがままに人生を楽しんでいるわけですよ。そんな彼らの心境を表わしているフレーズだと思いますね、この一節は・・

この場面を例えるなら、子供が遊園地とか砂場で泥と砂にまみれでキャッキャッと言いながら、我を忘れて遊んでいる時のようなものでしょうかね。子供は泥や砂が汚いとか綺麗とか、人目がどうとかそんなことはお構いなしに遊ぶでしょ。

これを仏教的に云うと、物事に境界線を引かない無分別で・・まるっきり自由に遊んでいるということですよね。つまり善とか悪とか、正しいとか間違っているとかを超えている・・

何かと何かを分断する我(わたし)がいない・・無我あるいは無心とか、空になり切っている・・というフレーズがこういう場面でよく使われるんですね。

空中無意識・・つまり、何度も生死を経験している不死なるエロヒムにとっては、死ですら幸福な生の延長にすぎないモノであって・・意識も生死を超えた、云わば超意識・・無限・空そのものなんだと思いますよ。

例えて言うと、エロヒムの生死を現象的に観るならばメビウスの輪のように、単に時が来れば生の面が裏の死の面にひっくり返るだけ・・また、時が来れば生の面に戻っていく・・そしてしばらくしたら、再び死の面に返りまたすぐに生の面に戻るだけ・・∞・・といったアンバイでしょ

・・それゆえ、生死の垣根をも越えて無心になって究極の自由のなかで遊んでいるエロヒムにとっては、意識があるとか超えているとか、執着が有るとか無いとか・・エゴがどうとか悟りがどうとか、幸福を求めるとか無限を感じるとか・・無限が有るとか無いとか、生とか死とか・・まぁ、そんなことはどうでもイイでしょ・・ということなんでしょうね。

こういったような感じなんでしょうね、彼らの究極の無限意識について言葉を使って表現すると・・少しヤヤコしくなりますよね、見えない意識を見える文字にしようとするとね(笑)・・特に、エロヒムレベルくらいの無限意識になるとね・・

我々レベルで別の言いかたをすると、川を渡るために使う意識といった小舟はもう要らない・・単なる道具として使われてきた意識の役割を終えた、超えたわけです・・宿題も用事もすべて終わった・・あとやることは何もない、ただただ無心に「遊ぶだけ・・」といった処ではないでしょうか。

こういった子供が無邪気に遊んでいる光景は、禅なんかでは「遊戯三昧・ゆげざんまい」あるいは自由自娯といって・・三昧(サマディ)、つまり悟りの心境・究極の幸福を表わすフレーズとしてよく使われていて、お寺の掛け軸なんかにも描かれているでしょ。

まぁ、少し乱暴でおおげさに聞こえるような、ゴチャゴチャと色んな例えを使って言いましたが・・まず「観照の作法」というのは①空・無限の哲学②意識③慈悲・愛のエネルギー・・この三つ巴のコラボによって時間をかけて育てられ出来上がるわけで、このアプローチは仏教もラエリズムも同じでしょ。

そしてここでの一番のポイントは、まずはこの段階で『無限・空を知る』かどうかなんですね・・ここが別れ目で、宇宙は無限で私はその無限の一部・永遠の‟チリ”なんだと、全てはつながっているんだと・・

真実の空・無限というモノをよく理解しなければ、観照の作法を身に付けるために今まで「気付きとか観察するための道具」として大切に使われていた意識は、単なる‟役に立つ道具”として終わってしまうことになるんですね。

しかし、空・無限の真実を深く知り無限とつながっていることを日常であるいは瞑想の中で実感しながら・・その無限をさらに意識することによって、意識はそこにとどまらず、更にレベルアップして‟無限意識”の領域での働きをすることになるわけですよ。

まぁ、これを超意識と言おうが十識あるいはアマラ識と言おうがそれはイイんですが・・云うならば、それは限りなくエロヒムに近い目線で物事を観るようなモノ・・といったことにつながるんだと思いますよ。

しかし、この高められた意識は無限小から無限大まで幅広く活躍する機能を持っているにもかかわらず、残念なことに日常でほとんどのヒトはあまり使うことが無いでしょ・・誰でも無限を意識する、無限を感じる能力は遺伝子レベルで持っているんでしょうけどねぇ。

ですから、いかに無限・空の真実を知ることが大切なのかということなんですね。そして、いつでもどこでも無限とつながっているのを意識しているようにして、出来る限り無限を感じるようにしておく・・窓口をなるべく大きく広げておくことですよね

いつでも、無限意識で居たいならばね・・例えば、自分は永遠の“チリ”なんだと・・無限大の‟チリ”であり無限小の”チリ”なんだと・・自分は無限の中に居て、自分の中に無限がある・・無限そのものなんだと理解するならば

そこには一切の境界線や壁が無いわけですからね・・無限小の“チリ”の処まで意識(無限)のカメラが動いて、ズームインしてくれるわけですから。

例えば、フツーに空気を呼吸している時でも、無限小との一体感・呼吸つまり「無限との交換」によって生かされている幸福や感謝も味わえるし・・

普段は見過ごすようなフツーの日常での色々な、フツーの出来事・・そういった小さな快楽に大きな幸福(笑)・・いわゆる小欲知足の気分も味わえるじゃないですか・・

あるいは、カメラを無限大にまでズームアウトするなら・・無もエゴ・我(わたし)も、それらと無限の間には境界線はないですから・・そこから観える無にしてもエゴ・我(わたし)にしても、レベルを上げた無限意識から観れば、それは単なる極小の無限の一部にすぎない・・

・・「すべては無限の一部」ということも理解できるでしょ・・無限以外のすべてのモノは方便であって・・形の有るモノから形の無いモノまで、すべては無限の中で無限の一部として在るわけですからね。

ですから、そのように世間を無限大にズームイン・アウトして観るならば・・人生での色んな煩わしさや、死に対する不安なども次第に無くなっていくと思いますよ。例えば、地球での今の生にしても無限に変化しながら続くドラマの中での一場面にすぎないようなものでしょ

・・それと同じで、死んだら無になってしまうと思っていたそのような死というモノでも無になるのではなく無限として存在する・・、無はその時その場所だけで無なのであって、死は無限レベルでは単なるカタチの変化にすぎないと解ることもあるじゃないですか・・

そういったわけで、せっかく「無常観」あるいは「無の瞑想」などで極めた意識なのですから、意識のボリュームの目盛りを、無限意識のレベルにまで上げてもらいたいんですね。

そのためにも、まずは『自分も他の生命も、すべては無限から生まれた単なる永遠の‟チリ”である・・無限意識においては、無というのは方便で、‟わたし・我”は‟無”ではなくて、無限・空そのものなんだ・・』ということを、仏教徒の方々も是非理解して頂きたいと思うわけです。

追記・・歴史学者のJ・ホイジンガ氏いわく・・人間の文化は、‟遊び”の精神のなかで成立した。遊びは人間の本質であり、最高の快楽である・・とは正に名言ですよ。ヒトは遊ぶために生まれてきたようなモノじゃないですか?

我々の遺伝子レベルでのプログラムは、そもそも「快楽原則」のシステムでもって、創られているわけですからね。元々遊ぶ理由なんかは無いんですね・・こればかりは仕方がない、腹が減ったら食べる本能と一緒ですから(笑)・・

まぁ、とにかくヒトは遊んでいる時に一番幸せなんだ・・といったわけで、仏教の「遊戯三昧」に限らず古今東西、どこでもこの‟遊び心”といった処に幸福のスポットを当てているのがよく解かりますよね。

さらに近年の『遊び学』における遊びの第一の定義は、「自由」である事と「面白がる」という事になっているらしいんですね。

それもそのはず「空の知恵」で何度もご案内のように、自由も面白がって遊ぶことも無限から生まれた・・我々が‟幸福に生きるため”に必要なひとつの知恵なんですね。

つまり、無限というモノにはその性格上あらゆる壁や境界線が無い、一切の束縛も分別も無いわけですから、‟自由”だということです。

そこで、自由といった知恵の空間から、ただ面白いからする・・といった‟遊び”の精神が生まれるんですね、無心になって・・我(エゴ)を忘れて泥遊びをする子供のようにですね・・後先考えずに、今この時この瞬間をただ楽しむ。

そういったわけで、我々も「人生は遊びだ・・」を哲学の一本の柱にして、物事に境界線を引かないで色んな視点から見る・偏った観方をしない・・深刻さが無い、おおらかな気持ちでのアプローチですよね。

そうすると無限意識のスイッチが入りやすくなって、広い目線で物事を観られるようにもなりますから、そういったオープンマインドで『面白がる』といった‟遊び心”を、日常で使う意識の門番にしておくとイイのではないでしょうかね。

まぁ、そこで遊び心さえあれば、無から無限まで(笑)・・遊びなんかはどこにでも転がっている、すべては遊びだということじゃないですか?・・。エロヒムも「いかなる形であれ、他に害を与えない限り、遊びの快楽は肯定される・・」と言っているくらいですしね・・。

そして、‟遊び心”のこの‟面白がる”心境というのは、わざわざ喜びを他に探しに行くというのではなくて、出発点は観照的なアプローチですから、どちらかというとまぁ「行き当たりばったり」の‟いま・ここ”に在るモノを楽しむといった・・‟いま・ここ”の無限目線でしょ。

余計な期待もこだわりもなく、何でも楽しんじゃいますよ・・といった心持ちだからね。面白がる気持ちのイイ処は、やはりエゴが薄まっているので、怒りの感情と執着心の出番があまり無い処でしょうね・・あれがダメだとかこのようにすべきだとかね・・若いとか年だからとか、上手い下手といった事にも邪魔されない・・

善悪もあいまいで優劣の基準も無いから嫉妬も起こらないし、勝ち負けや報酬にもこだわらないし、何度やってもイイから失敗だからと言って悲観することも無い、

しかも、‟面白がる”ことの基本は遊びの精神ですから全く深刻さはない・・余計なことは考えないので決まった答えも無い、着地点も目的もどうでもイイですし・・

途中で休んでもイイし、やめてもイイですしね。まぁ、そういったかなり気のなが~い・・ゆる~い感じですよね・・。

そういった、云わば究極の‟イイ加減の”気持じゃないですか。『あぁ、面白かった・・』と言えれば最高でしょう・・。まぁそんなアンバイで、善い悪い・好き嫌いはさておいて(笑)・・まずは、面白がって観てみたらどうでしょうか・・ということじゃないですか?。

ここで一句

無を超えて 無心に至り 空になる

{10月7日:エロヒムの記念日によせて}