続々色即是空的こころ➊

putlaさんへの追記:“無”と無限意識との関係について・・たとえば仏教でやっている「無の瞑想」や「呼吸瞑想」で言いますと・・ご案内のようにこれらの訓練によって“無”になる心境というのは、禅では三毒=貪(むさぼり/渇愛)・瞋(怒り/嫉妬など)・痴(真実を知らない無知)で汚れたエゴが隠れていて・・慈悲・愛のエネルギーで満たされた、穏やかな心になっている様子をいうわけですね。

この“無”の心境を無心とか無我、あるいは静寂・沈黙といったように・・「エゴが消えて、すべてが一つになる」といった“無”の雰囲気を持つフレーズで表現したりしますが・・こういった現象を貪瞋痴(とんじんち)の三つが隠れて見えなくなっている、つまり昧(くら)まされているということで、その様子を三昧(ざんまい)=サマディと言ったりもします。

そこで、これらの瞑想を繰り返すなかで、“無”の実感を何回も経験をすることもあり、三毒・貪瞋痴に汚れたプログラムが非プログラミングされて・・こんどは慈悲と空(くう)の香りのする善きプログラムが脳みそに再プログラミングされ、それが定着していくんですね。

そして、他と自分との壁がない・一つになっているといった実感から、自分と自分の周りの存在とがつながっているといった心境にもなり・・そのつながりの中で、多くの存在を愛でながら、そこから喜び・快楽をもらえる・・つまり、観照の作法が段々と身に付いてくるようになる。

そのおかげで、瞑想の時だけではなく、日常でも瞑想の時と同じような平和で穏やかな更に上質な三昧(サマディ)の心持ちで過ごせるようになっていくといったわけです。

そこで、簡単に云いますと『すべては無限の“チリ”で出来ている。自分も無限の“チリ”である・・といった真実の空・無限を知ること』により意識が“チリ”とつながって・・これまでやってきた仏教的な瞑想や慈悲の実践によって“無”をもたらしてくれた意識のレベルが、更に更にと無限に向けて高く上がるわけなんですよ。それを、ご案内の無限意識というわけなんですね。

つまり、そのハイレベルな無限の意識が常に一緒に居る慈悲・愛のエネルギーと強いタッグを組んで、今度は無限小から無限大の方向にまで更に活動の幅が広がるといったわけです。もちろん、このコラボが瞑想の時だけでなく、日常でも同じように自由に使えるようにもなるんですね。

例えば、解かりやすいように意識を山に見立てて、横意識と縦(たて)意識といった表現で言いますと・・横意識というのは、まぁ云うならば山のすそ野に近い場所で活動する意識・・我々がフツーに日常で使っているような、「何かに気づいたり・考えたり、物事を観察する」といったまぁ生きるために“役に立つ”意識ですよ。

山のすそ野のまわりでは、そういった横意識はだいたい自己保存のために、エゴ・自我意識を基本にした思考や怒りや貪欲さを使ってウロウロしていますよね。そして縦意識というのは、仏教やラエリズムの瞑想で使うような意識で・・無限という山のすそ野から上の頂きまで永遠に続いている意識にアプローチした、云わば無限志向の意識ですよ。

仏教で無常や無我などを観察する時などに使われる意識も、縦意識の部類に入る高い意識なんですが・・「真実の空・無限の“チリ”」を知ることによって、さらに(横意識の)すそ野から(縦意識の)果てしない頂きをめざして登っていける・・そのようなハイレベルの意識といったニュアンスで、あえて無限意識と言ったわけです。

ですから無限意識というのは、仏教の瞑想で使う意識にプラス『すべては無限の“チリ”で出来ていて、わたしは無限の“チリ”』といった究極の“空・無限”のエッセンスが加わった更に高い意識・・というようなイメージになるのではないかと思います。

だからといって別に難しいモノではなくて、我々が日常でフツーに使っているような意識が無限の慈悲・愛と哲学とコラボして・・縦方向=無限といった山に登っていくだけのハナシで、“役に立つ”意識が無限意識にかわるだけですから・・。そこらのすそ野あたりで、無限を意識できるようになればシメたものですよ・・

いったん無限の“チリ”にまでつながったハイレベルの意識というのは、無限小から無限大まで幅広く活躍するので・・瞑想でも日常のなかでも自然に意識とコラボしている慈悲・愛のエネルギーが意識のスイッチを押してくれて、どこでも無限意識がうまく使えるようになっていくものなんですね。

そこで何度も言うようですが、それにはまずは『自分は無限の“チリ”』だということを充分に理解するということなんですね。

無限に小さな生命から無限に大きな生命に至るまで、あらゆるモノは同じ“チリ”=無限の一部で出来ているわけですからね。自分の意識もすべての生命の意識も慈悲・愛のエネルギーは無限のなかで一つ・・同じモノで出来ていて、同じモノでつながっているわけですよ。

たとえば呼吸瞑想のなかで、一つの呼吸をしているのを観るだけでも・・体の中では酸素を取り込み、二酸化炭素を吐き出すわけでしょ。こういったように、我々の目には見えない細胞や遺伝子あるいは素粒子といった無限小のレベルでは、生体との無限の「“チリ”同士の交換」が行われていて・・四六時中、この無限の営み・システムによって我々の生命は“無限”に支えられているんですね。

このような無限の“チリ”同士の“愛の交換”が、あらゆる生命体の生死を超えたサイクルのなかで・・無限小から無限大の世界の中で行われているんですよ

そんなアンバイで、山のすそ野から少しだけ高い所に上がって・・無限意識のカメラを使いながら、無限に小さな世界から無限に大きな世界まで眺めるならば・・たとえば呼吸のシステムでも、無でもあるいはエゴや生死といった現象まで・・すべては無常、変化していくモノであり無我でもある=すべては「無限の一部」として観えてくるようにもなるんですね。

まぁ我々はそういった広大無辺な世界のなかで同じ「無限の一部=“チリ”」として存在して居て、意識がすべての「無限の“チリ”」とつながっているわけですから・・意識のカメラを無限小から無限大まで自由に動かして

・・“チリ”であることの幸せと、周りの“チリ”たちとつながっている喜びを感じながら、平和な優しい気持ちで日常を楽しく過ごしていきましょう(笑)といったわけです

そういったわけで、また“チリ”のオンパレードになりましたが・・ご質問の無限意識に至る一番のポイントを言いますと「無限とつながっている感覚を養う」ことですので・・無限を知識だけで理解するのではなくて

ご案内させていただいたエロヒムが教える『官能瞑想』のシステムを実践して、まずは無常・無我の源流である無限そのものを実感する処から始めるのがよろしいのではないかと思うんですね。

特に禅・ヴィッパサナーをなさっているのでしたら、「無の瞑想」のノウハウや意識の使い方には慣れているでしょうから、そんなに時間はかからないと思いますよ。ぜひ、試されてみてはいかがでしょうか。

 

ここで一句    “チリ”と知り 無限意識で 無を眺め

{10月7日 エロヒムの記念日に寄せて}

すべての生命が平和で、幸せでありますように・・