J・R・Mの淳ちゃんから以前に手紙があって、「実はラエルから聞いたんだけど、“仏陀が49日間地球を離れて他の惑星に行っていた”という記事が仏典に載っているというので、それについて教えてくれないか・・」といったものでした。
当時1990年ごろですか、たまたま『般若心経』の解説に手をつけていたこともあって、まぁついでに・・といった軽い気持ちで少し調べてみようかと思ったわけです。 いま思うと、この調査で得た事がこの『般若心経』の謎解きには、後でずいぶん役に立つことになるのですが・・。
しかし調べていくうちに、これは以外に面倒な作業であることがわかってきたわけです。つまり、仏典のどこを開いてみても「おシャカ様が UFOに乗って他の惑星に連れていかれた・・」とか「宇宙人に会って何かお話しをした・・」とかいったように、一目で誰にでもわかるようには載ってないわけなんですねぇ。
まぁそんなことは当たり前で、そのような記事が書いてある経典があったとなると、とっくの昔に世間では大変な騒ぎになっているのでしょうけれども(笑)・・。
とかく昔の人々にとって、およそ理解できないものは忘れられてしまうか、運が良くても本来のすがたは大幅に歪められて後世に伝わるのは世の常で・・とにかく、どのような形であれ多少なりとも何らかの形で残っていてほしいと願いつつ、調べものは細々と続いていったのでした・・。
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たとえば、「仏陀は天上にあるトウリ天という所で、生後まもなく死別した生母マーヤーのために説法した。 この間三ヶ月であった・・」といった伝説があるわけです。
確かにこの話は仏典にも載っていて、ここでの「天上(トウリ天)という所で」というのは“他の惑星”を連想させはしますが、「亡き母のために」というのは何か作為的な感じがするし、「その間三ヶ月」というのはどうも質問の日数とは合わないしといった状況でした。
「確かに、仏陀は地球を離れて・・」と理解できなくはないのですが、私としてはどうしても「49日・・」にこだわるわけでして、とりあえずは“49日”というところにポイントをしぼっていくことにしました。
その間にいろいろありました。たとえば仏教との関わりのなかで“49日”で有名なのは「49日の法要」ですね。 世間一般で行なわれるお葬式のあと、49日目に故人に対して法要がなされます。
なぜこれが“49日”かというと「人間が死んだあと、魂がその人の肉体を離れ、次の肉体に入るまでこの空間をさまよっている期間」が中陰または中有といって、49日間であるということなのですね。
私としては、この「魂がさまよう49日間」のルーツを「仏陀が地球を離れていた49日間」に結びつけてみたい気持ちは多いにあるのですが、とにかくこれらに関する先人の研究や資料は皆無ということもあって、一応この件に関してはしばらく保留にしておきました(中陰に関して、亡くなられた中村元先生には多くのアドバイスをいただき、心から感謝いたしております)。
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ある時『ジャータカ』という仏陀の前世物語を見ていたら、「仏陀が悟りを開いた」という伝承のなかで、その悟りのあと『49日間(菩提樹の下で)瞑想して悟りの悦びを楽しんだ』という記事があったわけです。 そこで、直感的なものを感じて、とにかくこの「悟りの49日」について少し詳しく調べることにしました。
おもしろいことに“仏陀の悟り”の周辺をいろいろ探っていくうち、次々と今まで隠れていたものが見えてきたのでした。なぜ「49日間地球を離れなければならなかったのか」、「本当の‟悟りの境地”とは何なのか」などなど・・。 これらについては後でお話しましょう。
ちなみに『ジャータカ』というのは、仏陀の過去世を説話風にまとめられた読み物です。 どうしてこのような物語が編集されたかというと、仏陀の悟りの内容があまりにも深遠で完成されていたために、当時の人々は、「ひとりの人間にとって、このような素晴らしい知恵がたかだか6,7年の修行によっては得ることはできない」と思ったのでしょう。
そこで、インドの仏教以前にあった「輪廻・業の思想」を取り入れたんですね。 つまり悟りをひらく前の彼の過去世におけるさまざまな修行や徳行(良い行ない)の積み重ねがあったからこそ、あのような知恵の極み(悟り)に達したのだと理由づけしたわけです。 このようないきさつがあって、仏陀の前世物語が編集されたのであろうと理解されているようです。
とにかく仏陀自身にとっても、この“49日”を境にして大変身を遂げるわけです。 なにしろ、それまでは日々断食・苦行に明け暮れしている、何処にでもいるような単なる修行者がこの時いらい大変な知恵者になって、無限の哲学を語りさまざまな奇跡を起こしたりするわけですから・・。
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仏典の中では、「悟りを開いてから7日後に菩提樹のもとを離れ・・第二週にはアジャパーラ樹のもとで瞑想にふけり・・さらに7日後にはムチャリンダ樹のもとで瞑想し・・」といった具合に書かれてあって、合計で49日間になるわけです。
しかし、この他にもいろいろな仏典や伝記のなかでは、それぞれの計算のしかたや解釈によって35日になったり56日になったりするわけなのですが、インドの聖地ブッダガヤーとか南方系の上座部仏教でも現在は“49日”になっているということで、悟りの期間に関してはこの“49日”で間違いないと自ら納得して先に進むことにしたわけです。
そうなると期間は49日で良いとして、この“悟り”というのはいったい何なのだろうかといった、どんどん掘り下げずにはいられない生来の悪癖が出てきて、こんどは興味がそちらの方へと向かっていったのでした・・。
“悟り”に関する記事のなかで最も有名なのは、これは誰もが知っている『仏陀は、菩提樹の下で悟りを得た』といったものがあるわけです。 このフレーズに“49日”と『ジャータカ』に描かれている情景を重ねてみると、「仏陀は“悟り”の悦びを味わいながら菩提樹の下で、49日の間瞑想にひたっていた・・」ということになります。
さて、そこでこの「 」の文句と、かねてからの命題である「仏陀は49日間、地球を離れていた・・」とをひき比べてみたわけです。「仏陀は49日間」までは同じですが、問題は、2000年以上もの長い間、誰もが疑うことをせずに伝承してきた、この魅惑的なフレーズ「仏陀は、菩提樹の下で、悟りを得た」なのです。
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このままみると何の変哲もない文章になっているのですが、実はこの文章の言葉一つ一つに重要な意味が隠されているわけで、まぁ一種の暗号みたいなものですね。 つまり、これは神話や伝承のなかによく見られる「象徴的表現」ではないかということです。
象徴といっても、当時としてはコトの真相を理解できなかったにしろ、これらは真実の仮の姿には間違いないわけです。たとえば、まず第一に「菩提樹」ですが、菩提樹そのものにはたいして意味はなく、仏陀がその樹の下で瞑想し“悟り= bodhi・ボーディ”を得たという故事から、後でこの発音(ボーディ)が中国で音写され菩提樹になっただけのことです。
大切なことは、菩提樹の陰にかくされた本当の意味でして、サンスクリット語でアシヴァッタ樹のことをいうのです。古来よりこの樹は“神々の住む所”をあらわしていて、しかもそこは“不死・アムリタを観察する場所”であるとされているのです。
そして、古くから西洋でも菩提樹は昔から「生命の樹」として知られているわけです。生命の設計図は遺伝子・DNAに他ならないわけですからね。洋の東西を問わず菩提樹そのものが命(遺伝子・DNA)を象徴する‟聖樹”といった意味合いがあるんですね・・
第二にその“悟り”というものを仏陀は当時、アムリタ・不死という言葉で表現しているのです。 ですから、簡単に言いますと「悟りを得た」という意味は「不死の秘密を知った(もちろん、遺伝子レベルで)・・」ということになって、つまり「菩提樹の下で悟りを得た」という文句は、「神々の住む所であり、不死を観察する場所において、不死の秘密を知った」ということになります。
そこで単純に、これらの暗号文をつなげてみると、「仏陀は、49日間にわたって、神々の住む場所つまり“エロヒムの不死の惑星”において、不死の秘密を知った(教えてもらった)」ということになるわけです。 そうなると、たしかに「仏陀は、49日間、地球を離れていた」ということになるのでした。ここで、まぁ少しざっくりとしながらも先が見えてきた感じで・・「不死と悟りとのつながり」の最初のポイントがあったことになるわけですね。
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仏陀の「生きること、老いること、病むこと、死ぬこと、これらはすべて苦である」というのは有名なフレーズです。そして最大の苦であるこの“死”を見つめ、「人間はなぜ死ぬのだろうか?」といった疑問が仏陀の出家のそもそもの動機といっても良いのではないでしょうか。
つまり、彼の出家の動機は死の解明であって、その後は“不死を求めての旅”とでもいいましょうか、そういわれると仏教の元々のテーマというのは“不死”というところから出発しているんですね。
2500年前に生きていた人間が“不死”についてどのように考えていたのかは多少興味のあるところです。 確かに古い文献を見ると、当時の修行者たちは仏陀に限らず、精神的境地としてあるいは別の世界でもって永遠に生きるといった意味あいで不死をイメージしていたフシが見受けられるわけでして、彼らは彼らなりの不死を求めて瞑想や苦行に日夜励んでいたようです。
しかし、我々が“不死”というものについて思いめぐらすとなると、やはり最近では分子生物学、遺伝子工学などの進歩のおかげで、人間のクローンが実際に“裏の実験室”では創られているという事ですし、これはどうしても遺伝子・DNAというもの抜きにしては考えられないわけです。 つまり、科学としての不死=クローンといった図式ですね。
いまの地球の科学レベルでは、個人の体細胞から遺伝子核を採って、それを卵細胞の空いている中に入れ電気ショックを与え細胞分裂を誘発させるやり方で羊や猿が創造られていますが、人間のクローンにいたっては何時誰が最初に名のりをあげるかといった状況です。
そうなると、あとは個人の知識や記憶のダウンロードと、短時間に成長促進させる技術の開発を待つだけですから、科学オンチの私のような人でも“不死”に対するイメージがだんだんと広がってきて、よりリアルになってくるわけですね。
そして最終的には、クローンニングによって、たとえば老いや事故で必要に応じて肉体が再生され、、記憶と知識といったソフトが順次移殖されて、実際に“不死”が現実のものになるといったわけですね、簡単に言いますと。
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まぁ、我々は昔とは違ってある程度科学が進んでいる時代に生きているわけですから、“不死”の可能性についてもそんなに遠い話ではないだろうとは思っているのですが、仏陀の時代はというと、どうなのでしょうか?
当時としては“不死”というものについて考える場合、科学的というよりもやはり肉体は滅んでも魂といったものだけが生き残って、それがどこか知らない場所にでも飛んでいって、そこで永遠に生きるといった非常に原始的なものがおそらく“不死”に対するイメージとしてはそんな処であったのでしょう。
なにしろDNAなんていうものについては全く無知なわけでして、とにかくこのような時代に苦行に明け暮れしていた一修行者がエロヒムと名のる宇宙人と遭遇して、彼らの住む“不死の惑星”に連れていかれるわけです。
それをエロヒムに言わせると、「49日間にわたって、その時代の預言者に必要な科学の奥義を伝授した・・」ことになるのですが、そのようなショキングな体験をするわけです。
もちろんそこにおいて、“不死”というものは特別な瞑想や苦行などによって得られる単なる精神的な境地というのではなくて、高度な科学レベルで行なわれる純粋な生命科学の成果であるということも知らされたことでしょうし、人々が長く信じていた魂というものの代わりに、遺伝子・DNAに対する基本的な知識も与えられたことでしょう。
彼としては、ここではじめて生と死の不思議を知り、将来的には人間が本来持っている知性や科学的能力によって“不死”が実現できるんだということが理解できたのではないでしょうか。
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それと共に、彼が驚いたのは49日の滞在期間中に見たエロヒムの“不死の惑星”に住む人々の生活ぶりでしょう。 特に、かつて地球に生きていた人間たちがエロヒムによって再生され、地球上でのあらゆる“苦”つまり生老病死に関わる障害からすべて解放されて、人々が幸福に生きている社会を実際に見たわけです。
そこで、このような実感を持ったことでしょう、「これが本当の幸福の極致・・私が求めていた完全な“悟りの境地”の状態なのだ!・・」と。 そして地球に帰還してきての第一声、彼は人々にこう言ったわけです。
「私は不死・アムリタの秘密を知った!・・」。 ここにおいて、仏陀の得た“悟り”をあらわす最も古い表現として、アムリタ(パーリ語でアマータ)という言葉が使われ、現在に伝わっているといったわけなのです。
私は何度もこれは言っているんですが、少なくても仏陀が言った“悟りの境地”の意味というのはこういった内容があるわけで、つまり「人間が考えうる、あらゆる幸福を味わうことができる科学の黄金文明・社会」のことを示しているんですね。
ですから、『本当の悟りの境地』というのは世間で言う涅槃とか解脱とかといった精神状態や一個人だけの幸福にとどまっているものではなくて、エロヒムも云っているように“不死”を象徴する科学技術の恩恵を受け、すべての人間のそれぞれ違った幸福を実現させてくれる社会のこと、惑星規模の全体的ないわば“幸福の器”のことなんです。
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しかし、完璧な生命科学によって生と死がどのようにも操作可能なとんでもない世界から帰ってきた人間が体験したことを聞いても、まぁ仏陀はどの程度まで話したかはわかりませんが、当時の人々はどのくらい理解できたものでしょうか。
とにかく彼は以前とは違って、深遠な哲学を語り、多くの人々に対して理にかなった実践的なアドバイスをしたり―実際はエロヒムの手をかりて―不治の病気を治したり、色んな奇跡を行なうものですから人々はびっくりしたことでしょう。
そこで、彼は“49日”をさかいにして大変身を遂げるわけでして、この時いらい彼は人々からブッダ=悟りを得た人・暗闇に光をもたらす人とよばれるようになります。
そういったわけで、2500年経過したいまでも仏教の本質あるいは目的とは何かとたずねられたなら、それは「悟りの境地」なのであってその本来の意味というのは、個人レベルでの精神の覚醒とか主観的な神秘体験などではないということです。
そうではなくて、人間の死が限りなく生に近づいた世界、「不死が実現され、あらゆる人々が幸福に生きていける社会・科学の黄金文明」のことであり、そのモデルが実際に仏陀が49日間行って体験してきたエロヒムの(不死の)惑星であるといえるでしょう。
そして彼のその体験が下地になって、地球の来るべき黄金時代を預言するシナリオが出来あがるわけです。 これがあの色即是空で有名な『般若心経』です。 『般若心経』についてはまた別の機会にしましょう。
“ヘビ”の補記 YU-AIさんへの手紙より
・・・仏陀が“ヘビ”のリーダーであるルシファー(聖書名:仏典ではムチャリンダ)の子ではないかというのは、蛇&‟ヘビ”つながりで物語としても説得力があってとても面白い話ではないかと私も思います。 というのも、イエスの処女懐胎は有名なんですが、実は仏陀の母親が当時の宗教行事である斎戒中(セックスをしてはいけない期間)に彼を身ごもったという伝説もあって、これはあまり世間では知られていません。
仏陀が自分を蛇・‟ヘビ”だと言っているホントの理由というのは・・仏陀が‟ヘビ”の実子だからなのか、あるいは彼が‟ヘビ”から受けた教えの継承者だからなのか、又は単に母親が蛇族出身者だからなのか・・まぁ、いくつか考えられるんでしょうけれども・・。仏陀をナーガ・蛇と表現しているのは、南方仏教の古い経典でもごく一部にしかないですし・・しかも、それは仏教関係者もほとんど関心の無いところです。
蛇に関してだけでなく、無知とは恐ろしいものでその時代の人間にとって理解できないこと、不都合なことなどはほとんど切り捨てられてきたのではないかと思います、残念なことに・・。
例えば、有名な 「仏陀入胎のおつげの場面」にしても、ナーガ・蛇 が白象にすり替えられているとしか思えないんですね。蛇に対する嫌悪感や蛇族解体といった歴史的背景を考慮するにしても、元々マーヤー夫人というのは、ご案内のように有名な蛇族の「コーリア族」出身ですからね・・どう考えても、この場面では象ではなくて蛇でしょう・・と思うわけですよ、このほうが物語の筋書きからしても説得力がありますしね・・。
まぁ、そういった諸事情もあって・・仏教徒からしてみれば仏陀を神格化するためには、象は見た目には大きくて強そうなイメージがあるし・・世間的には嫌われ者の蛇よりも象の方が良かったのだろうと思います。聖書には5パーセントも真実はないとエロヒムは言っていますが、仏典には何パーセント残っているのでしょうか? 仏陀はイエスより500年も古いですからね。
しかし、パーリ語経典の最初期に編集された『スッタニパータ』の数箇所と、古い詩集『長老の詩』に仏陀の弟子が作った詩が2,3編残っていたのが幸いしました。 それらから推察すると、当時はかなり仏陀は自分が蛇(あるいは‟ヘビ”)であることをアピールしていたようで、弟子たちもまた蛇を神格として崇拝していたのではないかと思われるフシがあるんです。 そうですね、現在の無神論で有名な仏教ではとても考えられないことですが・・。
まぁ しかし、それとは別に仏陀がエロヒムから何を教えてもらったかということが、もっと面白い話だと思いますよ。なにしろ、彼は49日間エロヒムの不死の惑星に居たわけだし、そこで体験したこと、教わったことがいまの仏教の下地になっていますから。
しかし何といっても2500年前のお話しですからね、今の人間でも想像を絶するようなところに連れて行かれて、そこで究極の科学から生まれた哲学、瞑想などを伝授されるわけです。
それを地球に持って帰ってきて、当時の人間たちにも解かるように教えるわけですよ。 いわば今の原始人よりもっと原始人でしょうから、それは説明する方も大変でしょうし、当時の人間にとって理解するのはもっと大変だったと思いますよ。
仏典などに書いてある一見むつかしそうな言葉がありますよね、無常だとか無我だとか。 しかしその言っている内容をみてみると、とても理にかなっているし、科学的だし、この考え方は今でも使って便利で役に立つし真理だなぁと思うものがあるものですよ、とても面白いものです。
哲学だけでなく、瞑想法もびっくりするほど科学的ですばらしいものがあります。 仏教といえば、だいたい二つに大きく分けて、インドから北方の中国経由で日本にきた大乗仏教、それとインドからスリランカに渡ってアジアに広まった南方仏教があります。
日本にもたくさん宗派の仏教があって、どれが仏陀の本当の教えだろうかといった向きもありますが・・北方だろうと南方だろうと何であれ、仏教は元々エロヒムから仏陀に渡されたものです。
仏説の真偽について、これはいつも言っていることなんですが、もしエロヒムからのメッセージと照らし合わせて納得できるものがそこにあれば、それは真の仏陀の教えの可能性があると言っていいのではないのかと思います。何といっても、基本は『エロヒムのメッセージ』なんですよ。
しかし、さいごに頼れるのはその「エロヒムのメッセージを真実だと判断したご自分の知性」しかないのではないでしょうか。 仏陀といえども、エロヒムから“幸福の手紙”を我々に届けるために遣わされたメッセンジャーいわば、郵便配達夫にすぎないわけだし、
そのエロヒムさえ無限という真実からメッセージを受け取った“無限の介在者”にすぎないわけですからね。 まぁ、いろいろな人を介し無限の時を経て、そしてエロヒムを介して我々に「無限の真理」を示されているわけです。
我々はどこまで“無限”を理解できるようになるのでしょうか? たとえばいま、ヒト遺伝子のゲノム解析はほとんど終了して、あとは個々のゲノムを細かく調べていくといった段階に入って徐々に色々な情報が出てきているでしょう。
いまのところ個人の情報については、この遺伝子・DNAの他には無いわけですから、人が死んで焼かれて灰になるとつまり個人の設計図が消失してしまうと、生前にDNAを採取しておかない限り、もう再生はないわけです。
個人の肉体から放出された微量のエネルギーはまわりの他のエネルギーと同化してしまい、肉体も意識も個性は失い、ただ周りの無限のエネルギーと調和するだけ・・これが科学的な“死”というものですよね。 しかしご案内のように、エロヒムも云っているように、故人のDNAが残っているとそれを基に再生できるわけです。
これと比べて、仏教のいう生まれ変わり・再生とはどういったものかというと、仏陀の死後に仏教に採り入れたといわれる業(ごう)・輪廻思想というインドで古くから伝わるモノがあります。
これなんかは、生命体がいったん死んで肉体が無くなっても、個人の精神エネルギーみたいのは無くならないで、これがずうっと残っていく。そして、業といって生前に自分がした善い行ない、悪い行ないがあって、つまりこの心の善いか悪いかのエネルギーが否応なしに来世のその個人の人生に影響を及ぼす。
業のシステムとは悪いエネルギーには悪い来世が待っていて、良いエネルギーには良い来世が待っているというわけですから、良い心に修正しない限りつまり最終的な悟りである解脱を得られるまで何万回も気が遠くなるくらい生まれ変わって、善い心に修正しながら人生をやり直さなければならない。
それも来世では人間に生まれてくるとは限らないわけで、豚に生まれるか鶏に生まれてくるかわからないと、簡単に言うとこのような考え方です。
仏教でいうこの不滅の精神エネルギーとやらが個性に影響を与えるといったわけで、そもそも、死後体外に放出される精神エネルギーのようなものが個人のデータであるようなことを言われると、まったく現在の遺伝子レベルの話しではなくなるわけです。
ですから、現代人の精神的―科学的バランスに近づいているといわれる今の仏教といえども、無限の真実からは遠く離れてしまっていて・・このように、すべてにおいて神秘性が無いとはいえないわけですね・・・略・・。