・・般若心経のなかに『空・くうにおいては不生不滅、生も死も無い・・』といったフレーズがあるんですね。まぁ何度もご案内のように、「空・くう」というのは時間も空間も無限だということ、そして科学的な生命の創造も無限に循環しているということでした。
その時代のどこかの惑星の知恵者が遺伝子・DNAをもとに色んな生命を創造してきたし、これからもその創造が行われていくということ・・これが無限に続いてきたし、これからも無限に続いていくというわけですね。
始めも無く終わりも無く永遠なる‟変化”だけが続くわけですから、何かが生まれるとか死ぬとかといったモノではないんですね。人間を含むすべての存在、動物・植物も土も水も花鳥風月あらゆるモノを構成する成分は一緒・・
まぁ、我々は生死を超えて空・くう”のなかを千変万化しながら・・アチラコチラをさまよいながら、終点のない面白い旅をしている“果てなき放浪者”とでも言いましょうか(笑)・・
しかし、こういった「空・くうの真実」を知らないでいると、例えば知り合いの誰かが死んでしまうと、我々は『すべては無になってしまった・・』とか言って嘆き悲しんだりするんですね。
しかし、我々が考える「死」というモノを空・無限のレベルから観るならば、実際はそうではないことが解るんですね。死といった現象は別に悲しいものでもないんですね。それはごく自然なあり方で、カタチが変化して次のカタチになるだけですからね・・
まぁ死ぬと、例えばその死体はそのまま土に埋められたり、どこかの国では鳥の餌になったり、あるいは焼かれて野菜の肥料になったり、煙になって水分は蒸発したりして、まずはそういった変化を経験する・・
さらに変化は進んで、肉眼で見えないレベルでは、それらを形成している微細な物質は周りの無限の物質とエネルギーと溶け合い、再び空・くうの中に、無限のサイクルの中にもどっていくわけなんですね。けっして無になるというわけではないんです・・
例えば、のどが渇いて水を飲むでしょ。その水はめぐりめぐって、いつかは空・そらの雲にもなってしまうんですね。つまら、飲んだ水は我々の体の中に吸収されたり汗になって毛穴から蒸発したり、あるいは体熱によって蒸発して息とともに鼻から霧状になって外へ排出され、それらは天にむかって旅立っていく・・。
そして、彼らはまわりの水蒸気と一緒になって空・そらの雲になったりするわけです。体内に入った水は、死んで無くなるわけではないんですね。飲んだ水はいろんな旅を経て、雲に姿を変えたにすぎないということ。
そしてその雲も、しばらくして雨となって大地に降り注ぐわけで、この雨も浄化されまた飲料水になり我々の体の一部になる。こういった完璧な循環が無限に続いていくといったアンバイなんですね・・。
先日、テレビの中でベトナムの禅僧ハン師が次のような詩を子供たちのために語っていましたので、ご紹介しましょう。
『・・(ハン師、コップのなかに入った水を眺めながら・・)水に姿を変えた‟雲”さん、雲でなくなってもあなたは死んでなんかいません。
コップの中の雲さん、空・そらに居るのは楽しかった?いい眺めだったでしょう。
美しい地球を楽しむ時間はありましたか?それとも、他の雲さんとけんかばかり?雲として浮かぶのはすてきですね。
でも雨となって大地へ降りてくるのも捨てたものじゃないですよ。かわいい雲さん、空・そらが恋しいですか?
空・そらに帰れるようにしてあげましょうか?。今すぐ空・そらに帰りたかったら、お鍋に入れて沸かしてあげましょう
ちょっと熱いけど十五分でまた雲になれますよ。しかし、ゆっくりしていってもいいんですよ。
地上も美しいです。私の体のなかに遊びにきませんか。体のすみずみにまで行けるよう、あなたをゆっくり飲みます。
私の体はすばらしい世界です。色んな道を通って肝臓さんや肺さんや細胞さんたちみんなに会えますよ。
そして、数時間経ったら息として体から出てきてください。水蒸気となって私の吐く息について行けば、ゆっくり空・そらへ上がってまた雲になれますよ・・それでは、よい旅を!・・』
ここで一句
空・そらの雲 遊びめぐりて 空・くうのなか