再びPONさんからの・・『愛・慈悲のエネルギー、それは我々の生命を支えている無限との交換のこと』:捨(しゃ)の心境について・・
エロヒムはこのように言うわけです・・『我々の生命は、我々の生体組織と無限の物質とエネルギーとの絶え間ない‟交換”によって支えられている・・』と。もしそうであるなら、どうでしょうか?我々は無限による『無償の愛』に支えられている・・‟無限に愛されている”と言ってもイイのではないでしょうか・・
そこで我々も無限を見習って、夫々が見返りを求めない・無償のエネルギーを大いに出しあえば、お互いが優しい気持ち・穏やかな心境になるわけですから、しだいに争いごとも無くなって地球も平和な場所になっていく。
さらに、その集結した愛・慈悲のエネルギーが科学(知恵)とひとつになって、あらゆる‟苦”から解放された「科学の黄金文明」が創られていく・・そういった世界をホントの‟悟りの境地”と言うんですよ・・とエロヒムは教えてくれたわけです。
まぁそういったわけで、いつの日か彼らの不死の惑星のように・・地球も‟悟りの境地”に至るようにと・・エロヒムの‟ヘビ”が仏陀に渡したメッセージのなかには、この善き「愛・慈悲のエネルギー」の使い方もあって・・
それが我々にも解りやすいように、慈・悲・喜・捨・・この四つの‟善き感情”を「四無量心」というモノとして、今の仏教にも伝わっているんだと思いますよ。
例えば、「①慈」は自分の親しい人や友人に対して自然に出てくるのと同じように・・他の生命に対しても、フレンドリーでオープンな優しい感情ですね。「②悲」は、他のヒトの苦・痛みを無くしてあげたいと・・そのことを我がことのように思っていたわり、同情する優しい感情。
「③喜」は、他のヒトの幸福も自分の幸福のように、よかったねぇ~とうれしく思う・・そういったレベルの高い、共感できる感情のこと。そして、四つ目が更にハイレベルな「④捨」の云わば‟見守る”といった心情になるわけです。
それから、日常でのこの‟善き感情”の使い方に共通した注意点があって、そこに余計な“エゴ”を差しはさまないようにする・・というのが気をつけるポイントなんですね。
ご案内のように、エゴ・主観(感情・思考・欲望)のエネルギーは強力ですから、いつでもどこでも少しでもそこにスキマがあれば、知らないうちに勝手にスッと入って来るでしょ(笑)。
例えば「慈」といっても、ヒトとの関係にはベッタリと執着しないで、そこに土足で踏み込まないフレンドリーさをもって・・常に他者の自由を尊重するということに気をつける。
「悲」については、同情が善いからといって他人の感情に入り込みすぎて、自分は無力だ何もしてあげられないといったように悲観しない・・‟うつ”になるくらい落ち込んだりしないように・・etc・・『俺が・・わたしが・・』といったエゴ的思考・欲望や感情で意識をつぶさないということ。
そこで、この四つ目の「捨」の心持ちを解りやすく言いますと・・先ほど言いましたように‟エゴ”には気をつけながら・・すべての生命に対して平等に、思いやりのある優しい気持ち、あるいは同情・共感といった「慈・悲」がベースにある感じですかね・・
そしてその善きエネルギーに、更に母性が加わって・・そこに、‟無限”の方向にボリュームアップした非常に高いレベルの意識が、仲良くコラボしている心の様子とでも言いますか・・
母性という優しい繊維で編んで作った無限意識という伸縮自在なネットを張りめぐらして包み込むように・・すべての生命を執着無く見守っている心情・・とでも言いますか、少しややこしいんですが(笑)・・
つまり、そういったような“見守る”といった処にスポットを当てた心の様子・・といったアンバイですかね、あえて言うなら捨のイメージとしては・・。
それと、まぁ自分は割とオープンマインドで誰とでも仲良くなれるんだけれでも、他人にはあまり同情心が起きないタイプだとか・・自分は同情する気持ちはあっても、他人の幸福を喜ぶことはあまり無いんだよねぇ~といったように、ヒトの感情に関しては色々と得意、不得意がありますからね・・。
遺伝的に医学的に、同情や共感があまり出てこないヒトもいるでしょうし・・しかし、そんなことには関係なく、自分の得意分野での「愛・慈悲のエネルギー」を、それなりの個性・やり方で出して使えばイイわけですよ。
善きエネルギーには変わりないわけですし、そういった誰でも持っている善きエネルギーと無限に向いた意識がコラボしていくわけですからね。
また、人様に使うほどエネルギーの余裕が無い・・というならば、愛・慈悲の瞑想や愛の隨念などを実践しながら・・これは、まぁ少し踏ん張ってでも愛・慈悲のエネルギーを出していくしかないでしょうね(笑)・・意識的に、善きエネルギーを出していくということですよね。
意識的に出そうと思えば、面白いことに愛・慈悲のエネルギーは自然に出てくるようになりますし・・意識が無限とつながるようになって、自ずと思いも行為も慈悲・愛のエネルギーによって動いていくように、我々の心はそんなシステムになっていますからね。
例えば、ベーシックな「①慈・いつくしみ」のエネルギーが、他のヒトの幸福を自分の幸福のように喜べるといった四無量心の「③喜」の高いレベルにまで自然に上がって行くようにもなりますからね・・
そうなると、世の中には無数の人々が居るわけでしょ。ラッキーなことに、そこで③喜の心境に至るならば、更に無限意識にアプローチしていって・・自分の幸福プラス他のヒトの分の幸福も自分の喜びとして両方味わえるわけですから、何時でもどこでも幸せな気分を味わえるんですよ。ですから、こんな幸せなことはないんですね・・
そしてこの④捨「見守る」といったモノについては、エロヒムが地球に住む我が子たちを、大いなる慈悲と母性でもって何千年ものあいだ、遠くから見守るといった気持ちを想像してみるとお解かりになると思うんですが
我々も彼らまでには至らないにしても、同じように身内の人間や親友に対して、余計なおせっかいや口出しをせずに「愛するヒトを見守る・・」といったフレーズを言ったり日常でも実際に体験したりして・・それなりに、ささやかな愛・慈悲のエネルギーを使っているんですね・・
そういったような感じで、例えばエロヒムの目線から地球に居る我が子たちを観るならば、遠くに居ようが近くに居ようが、物理的な距離・時間には関係なく深いところで繋がっているんだと・・しかも、我が子とはいえ自分たちと同じ無限の一部で平等ですからね・・
そういった、同じ無限の一部である生命に対しての執着が無い、感情や欲望で押しつぶされない高い意識・・しかも言葉では表現出来ないくらいの、限りなく広く深い母性・・そういった心持ちの目線なのではないでしょうかね・・
ですから、限りなくハイレベルな無限意識に居るエロヒムの目線から観るとするならば、見守るというより観守るといったほうがよろしいのかもしれないですよね・・
まぁ、そんなアンバイで我々もエロヒムを見習いながら、エロヒムの心境までには至らないにしても、それなりのレベルで無限意識のカメラを動かしてズームイン・ズームアウトするなかで
それぞれが持っている慈しみとか同情といった善き感情を使う。そして、共感しながらも欲望や感情に流されず、執着せず・・そういった思いやりのある、優しく見守る気持ちで居ることは出来るのではないかと思いますよ。
まぁ、仏教では、こういったような心のあり様・・四無量心での四番目の善き感情を「捨・しゃ(ウペッカー)」というわけです。
追記・・・慈悲・愛と意識は何時もコラボしながら一緒に支えあっていますから、これを別々に分けることはできないモノなんですね。
意識を高いボリュームの方に上げれば、慈悲・愛のエネルギーもそれに伴って、その同じ処まで上がってくる・・無限を意識することで、限りなく無限に向けて高く広く深く、意識とその善きエネルギーが支えあって働く・・
しかし、意識のボリュームが自分(エゴ)の周りにしか届かない低いモノであれば、慈悲・愛のエネルギーもまた同じように低いレベルでしか働かないわけですから、欲望と感情・思考に振り回されながら自分の周りの周辺のモノだけに執着して、そこだけに消費されて終わってしまうモノでしょ。
仏教では昔から、「捨」はあまりも穏やかな無執着の深く優しい心情であるために、我々の考える喜怒哀楽といったフツーのヒトの感情の指標からみれば
これはもはや感情とは思えないような、限りなく透明な水のように、あるいは“空”のごとく・・澄んだ心の在り方と言われているわけですから、これは菩薩の心にも例えられるわけです・・
こういった「見守り・捨」の心境にスポットが当てられた背景というのは、思うにやはりエロヒムが彼らの親エロヒムからの遺産である『無限・空の真実』を知った・・という処あたりにもあるのではないでしょうかね。
つまり、おそらく親エロヒムもそのまた親のエロヒムも・・∞・・といったように、はるか遠い昔からこの様な遺産といった形の中で、「真実の継承と見守リ」という愛のバトンが親から子へと・・∞・・と、永々と渡されてきたのではないでしょうか・・。
あたかも無限が『無限との交換』によって、宇宙のすべての生命を何の分け隔てなく、執着無く、無償の愛で支えているかのように・・。
それゆえに、無限の「宇宙の法則」に従って、ご案内の‟救済”の後は、愛する我が子といえども人類に直接的には介入することも無く、究極の無限意識で何千年ものあいだ遠くから見守り続けている・・
そこで“捨”の心境をいうならば、何度も言いますがその善きエネルギーと無限意識のコラボによる“愛のある放任”・・直接的に関与するというよりも、無限との交換のごとく、すべての生命を見守る・・
あるいは‟見守る”といった表現よりも、まぁニュアンスとしては‟観守る”と言ったほうが、シックリくるのではないかと思いますね・・。
まぁそういったわけで、相変わらず慈悲・愛と無限意識のコラボという話になってしまいますが・・この殺伐とした世の中にあって、我々も無限との交換のごとく、菩薩の心のようにありたいものです。
ここで一句
エロヒムと 共に捨になり 空になり