色即是空的こころ・・⓲

・・こないだも、朝早くテレビをつけるといつもの美輪サンが居て、いつもの子供たちが三人で歌っていたんですね「・・きれいはきたない、きたないはきれい・・♬・・」 綺麗は汚い・・?・・

面白いフレーズだなぁ・・と思ったんですが、これはどうもW・シェークスピア作『マクベス』の劇中で魔女が歌っている場面の歌詞らしいんですね。

これを聞いて思い出したのが、例の『般若心経』の「・・舎利子 是諸法空相 不垢不浄・・」といった一節なんですね。

「シャーリプトラよ、無限(空・くう)の在り様というのは、聖なるものでもなく、けがれているものでもない。綺麗なわけでもなく、汚いわけでもないんだよ・・」ということです。

まぁ、何度もご案内のように、この世に在るすべてのものは、目に見えるモノから、目に見えないモノまで、始めも終わりも無い‟無限”の物質とエネルギーで出来ているわけです。

そして、その物質の一個一個に「これは綺麗です」とか、「これは汚いです」と書かれた名札が貼ってあるわけではないんですね。

ですから、そういったモノで構成されている、つまり無限の一部である我々は、綺麗とか汚ないとか、そういったモノではないんだよ・・といった話なわけです。

綺麗・汚いというのはヒトの主観や、個々の色メガネで見て決めただけですからね。アートやファッションなどを見るとおわかりのように、そういったモノの評価や価値はその時代や文化圏・TPOで簡単に変わるモノでしょ。

例えば、いま流行っている膝なんかにわざと穴を開けているようなジーンズだって、ひと昔前には汚れ扱いだったわけですからね・・

ちなみに、こういった「破れた、すり切れ」感に惹かれる美意識というものは、なぜか私には日本古来の「侘び寂び・わびさび」や「もののあはれ」といった感性にリンクしているように思えるんですね。

時を経ながら、変化し色あせ朽ちていく・・死すら感じさせる無常感・・そして、すり切れ破れた布のすき間から見え隠れする若い肌・・この生と死のコントラスト・・

こういった変化するモノ、移り行くモノに執着せず、嫌がらず、只々それらを楽しむ・面白がる・・そういった先人の知恵と感性には大いに共感できるものがあります・・

まぁ、そういったわけで、無限・空くうの立場からするならば、ヒトの主観や価値観で何かと何かを分ける、壁を作る、境界線が引かれているといったようなことでは無いんですね。

それゆえ、差別・区別がないので自由でありまた平等でもある。更に、差別・区別が無きゆえに、そこには物事を比較をするとか順位をつけるといったような、云わば分別(ふんべつ)が無い、つまり‟無分別”ということなんですね。

言葉を変えて云うと、「あるがまま」ということ・・。

そこで、この‟無分別”といった知恵にもスポットが当たるんですね。これがまた万能調味料みたいなもので、何にでもこれが入っている。

つまり、自由にしろ平等にしろ、こういった知恵や価値観というものにも必ず「無分別」といった無限から導いてきた「空・くうの知恵」のエッセンスが入っているということなんですね。

例えば、あれがダメとかこれならイイなどとか言って、分別臭く勝手に自由を分断したり、平等のあちこちに線を引いたりしたら、ホントは自由でも平等でも無くなってしまうでしょう。

・・まぁ、物事を主観的に観て、綺麗なら綺麗、汚いなら汚いと、すべてを真っ二つに分けて云うのであるなら、これは簡単でとても解りやすいんではないかと思うんですが、空・くうにおいては、そういった風にはならないんですね。

世間では当たり前のように、夫々が両方を見比べて、ものごとに価値をつけ勝手に‟分別”して、そのどちらかに賛同したり反対に嫌がったり、あーでもないこーでもないと騒いだりするでしょ。

綺麗・汚い、善い・悪い、男か女か、白色だ黒色だ・・etc・・とか言ってね。しまいに、そこの場所では二元対立が起きて、エゴや緊張感が強まって争いごとが起きたりする。

主観・エゴが強く出てくると愛・慈悲のエネルギーが希薄になり、人間関係もギスギスしてきて、中々リラックスできないといった状況が出てくるものなんですね。そこで、大いにこういった「空の知恵」を使いましょう・・ということになるわけです。

しかし、別に‟分別”が悪いというわけではないんですね。例えば、日常のなかで決まり事や法律を作ったりして、そこで個々の安全やプライバシーが守られたりするわけですからね・・これも‟方便”のひとつ。

スーパーで大根を買うときに大きさ等を比較したり、生ゴミとプラスチックごみの‟分別”をしたりするでしょ・・まぁ、型にハマった事しかやらないでいると、『分別くさいヤツだなぁ・・』とか言われたりしますけどね・・

また逆に、調子に乗って型破りな事ばかりやっていると、『イイ年をして、分別が無いのよねぇ・・』といったアンバイになってしまう・・。‟分別”と‟無分別”の使い分けも、なかなか難しいようです(笑)・・

それでも最近は、人間の知恵と科学の進歩のおかげで、物事の境界線といったものは実はそんなにはハッキリしていないで、微妙に曖昧なんだと理解されつつあるでしょ。

おかげで極端な二極化が嫌われて、世間では余計な‟分別”は段々と‟無分別”寄りになってきているのではないでしょうか。

例えば少し前までは、男は男らしく女は女らしく・・とかいって、ヒトの間にも割とクッキリ線が引かれていたでしょう。

しかし、最近のヒトゲノム解析など遺伝子・DNAの研究分野では、ヒトは単純に男女二種類だけには分けられないと・・

男女を形成する心身の因子というのは、それぞれ微妙に入り混じっていて、ヒトには性別の切れ目がなく性が連続している、多様性があるんだと云っているわけですしね。

それはあたかも壁が無い、境界線が無いといった無限の性格を、その無限の分身である人間そのものが表現しているかのようです。

そんなアンバイで、今までの古い常識や固定観念、偏見・差別が見直され、将来は個々の価値観も無限に多様化していくわけですから・・

まぁ少しずつではあっても、‟無分別”の知恵として、また人間本来の遺伝子レベルでの「あるがまま」さとして、分別の垣根を越えて社会の中へとジワジワと染み込んできているのでしょうね。

・・追記

・・人間のそういった本来の「あるがまま」さにスポットが当たって、それを我々の社会がどのくらい受け入れてくれて、将来どのように実現されていくのか・・楽しみなところではあります。

しかし、我々の社会もエロヒムの慈悲エネルギーで満たされた社会のように、大いに成熟して無限に限りなく近づいてくると、人々の「あるがまま」さの欲求水準もかなりのハイレベルになるでしょうから

そういった人間の熱量、ある意味ヒト夫々の「わがまま」を受け入れる社会の寛容さ・熟成具合が、これからは大いに試されることにもなるのではないでしょうか。

「わがまま」も垣根を超えると「あるがまま」になってしまう処があるでしょ。「あるがまま」も「わがまま」も紙一重ですからね。

自分の周りや社会に認められると「あるがままでしょ・・」とかいってチヤホヤと許されるし、そうでなければ単なる「わがまま」のまま、しぼんでしまうということもある。

そこで、‟わがまま”だとか‟ガンコ”だとか何だとか言われようが、どうしても自分の意志あるいは自分たちの強い欲求を達成しようと思えば・・

もちろんヒト様に迷惑をかけてはいけないわけですから、自分たちの居場所あるいは属する社会から離れなくてはいけなくなるのではないでしょうか。

そういった大きな事件が大昔にあったでしょう!?・・『宇宙人からのメッセージ』や『真実を告げる書』等でご案内の、エロヒムの科学者たちによる、彼らの生命創造の一件です。

当初、彼らの惑星でやっていた生命創造の実験がしだいに危険なものとみなされ、世論の反対にあって、やむなく実験を続けるために彼らが住む惑星を離れて、地球や他のいくつかの惑星で目的を達成せざるを得なかったわけですからね。

まぁしかしそういった経緯があって、彼らの元々人間が持っている「あるがまま」さが、この地球で限りなく‟無分別”に発揮され(笑)、そのおかげで我々が今ここに居るといったアンバイになるんだけれどね・・。 つづく

 

ここで一句

知恵だせば にじみ出てくる 無分別