続 色即是空的こころ➌

・・エロヒムが直接介入せずに、人類をどのように導いてきたのかというのも興味のある処ではないでしょうか?。 

ご案内の通り人間の知性、科学的な才能に関してのお墨付きはいただいても、慈悲・愛といったモノが少し足りないというのは解っているわけですからね。

『慈悲・愛のエネルギー』を使うというのは、ヒトが幸福に生きるために必要な最も基本的な‟知恵”ですからね。

そこで、まずはその足りないモノを補うため、自分たちの代わりに時代の預言者や賢人といわれる人たちを選び、彼らにメッセージを与え最初の人間を教え導いてもらうということになるのではないでしょうか。

仏陀やイエス、孔子・老子などを参考にしていただけるとお解かりのように・・仏陀の慈悲、イエスの愛、孔子の仁、そういった彼らの根本的な教えはご案内のとおりです。

人類がエロヒムの世界へ、つまり自分の子供たちを「悟りの境地=科学の黄金文明」に導いていくための、こういった彼らからのビジョンなるものを思い浮かべると、エロヒムの当初からの計画といったモノが垣間見えてくるのではないでしょうか・・・。

というのも、科学の黄金期に至るということは、例えば惑星外に行くためのエネルギーを発見したとき、『そのような大きなエネルギーに見合った大きな愛・慈悲の心のエネルギーが必要になる・・』と彼らは云うわけです。

もしそこで、人間に愛・慈悲の心が足りなければ、持ち前のエゴと攻撃心によって争いが起きて、地球が壊滅するくらいの大異変になってしまうということなんですね。

科学技術と愛・慈悲のエネルギーバランスが崩れると大変なことになるというわけです。これは、他の生命体との無数のコンタクトで集めた様々なデータによって、様々な生命体の終局を知っているエロヒムならではの貴重なアドバイスですよ。

そういったわけで、「許す・たすける・認める・理解する・慈しむ・同情する・観守る・・」そういった人間の心を作っていくための愛・慈悲のエネルギーが足りないのなら、まぁ時間はかかるかもしれないが、それを補うためにそれを作り育てていけばイイんじゃないか・・ということになるのではないでしょうかね。

何も難しいことじゃない、とてもシンプルなことなんですよ。そのための心の設計図はひかれている、土台はしっかりとあるわけですから・・。

例えば、慈悲の心を育てるというポイントでは、攻撃心と結びつきやすいエゴ(我・わたし)といったモノを狭い部屋からいったん出させて、無限といった広い世界を知らせるといった処も大切になる・・そういった無限へのアプローチですよね。

まず、真実の無限(空の原理)から導いた知恵、あるいは瞑想教育によって無限にむかって心を開くようにしていくことも必要になるでしょ。そこで、自分はその無限の一部であることを知るわけです。

そのためのノウハウとして、エロヒムが昔から教えてくれて今に残る例えば仏教の禅やヴィッパサナーといった瞑想法があるわけですし、「四諦八正道」のシステムなんかはエゴ対策マニュアルそのものですしね。

無限から導いてきた無常あるいは無我といった概念を初めとして、無所有・無分別・三輪空寂・・etc・・といった知恵はすべて無限から導いてきた「空・くうの知恵」として、今でも大事に使われているでしょ。

ご案内のように、仏教では‟ヘビ”が仏陀に教えましたので、意識を鍛えながら「四無量心」を使い、無常・無我などといった云わば‟無限のシッポ”を瞑想の中で実感し、それを知恵として・・日常のなかで実践して今に伝えてきたわけです。

例えば、先人たちは無常を感じたり無我の瞑想によって、あるいはそれを日ごろから意識することで‟無限のシッポ”を踏むことになるんですね。そこで、無常=変わりゆくモノに触れて、‟もののあわれ”を感じることにもなるわけです。

「慈悲が出てくれば、その分エゴが引っ込む・・」とはよく言ったもので、慈悲・愛のパワーというのは意識の筋力しだいのところがあるでしょ、無意識のうちにあっという間に出てくる怒り・保身に関わるエゴパワーは強力ですからね。

そこで、意識の道具である気づきとか客観視とかね、そういったモノを使って保身や攻撃心を見守り、監視しながらね(笑)・・。意識の筋肉をつけながら、空の知恵を学び、それを日常のなかで実感していくスタイルですよね。

そういった事によって慈悲・愛のエネルギーがどんどん出てくるようになる、そんな仕組みなわけです。そして、個々で作り蓄積されたこのエネルギーが集まって、これが集団のパワーになると凄いことになるわけですよ。

ちなみに、このエネルギーによって皆で創り上げた幸福の器、エロヒムが暮らす社会を仏陀が見て、それを「悟りの境地」といったくらいですからね。まぁこれらの瞑想やシステムはエロヒムが我々の成長にあわせて練りに練って考案したモノですから、うまく出来ているわけです。

これに加えて近年、画期的な『官能瞑想』が与えられたわけですからね。これによってさらに深く無限を知り、実感していくといったアンバイですよね。自分は無限の一部であり、無現の中で、その無限といつも一緒に居るという実感が段々出来てくるんですよね。

自分は何の変哲もない小さな‟チリ”「無限のかけら」なんだと知る。そして、そんな小さな自分でも無限を感じることで、無限を意識することで、自分の周りの人々と他のすべてとつながっている事も実感できる。ひとは無限を知ることで謙虚になるものなんですね。

謙虚になると同情心もわいてきますしね、少しづつ慈悲の心ができてくる。そうしていくうちに、慈悲・愛のエネルギーのエネルギーとコラボした無限意識の目線から物事を観ることの幸福を知るわけでしょ。

ですから、その感覚は仏陀の云う「悟りの境地(科学の黄金文明)」に実際に住んでいるエロヒムと限りなく同じモノだと思いますよ・・つまり‟わたし”も、彼らと同じ愛の無限目線で物事を観て、彼らと同じような幸福感を味わっている・・無限と共に生きている彼らと一緒・・‟わたし”は無限そのものだ・・

そこで、はじめて『我・‟わたし”は存在る・・』・・と言える、あるいは『エゴ・わたしが無限の中心にいる・・』といったような事さえも言えるのではないでしょうかね。・・これは仏教で云う処の『空に成り切った‟大我”』みたいなモノですよ。

そもそも、エゴ・わたしというのは無限の一部‟チリ”であるという自覚から始まるわけだし、無限にアプローチしていくための方便でもあるし・・そういった‟わたし”が、これも生と死といった方便を使って、無限にアプローチしていくわけですからね。

それゆえ、こういった明快なフレーズ『“わたし”はいる・・』を使えるような境地で存在るというのがイイんですよ。ついには、‟わたし”と無限とはいつも一緒・・無限意識においては、‟わたし”は無限そのものだと悟るわけですから・・

しかし、このフレーズを慈悲や愛のエネルギーを使う知恵も無く、‟無限”に縁もゆかりも無いヒトが言うと、この時の‟わたし”は単なる無知と保身だけにエネルギーを使い果たしてしまうエゴ(小我)まる出しの‟我・わたし”になっているのでしょうけどね(笑)・・

そんなアンバイで、すでにご案内の向きからすれば、今更・・と思われるでしょうが、再び云うと①ひたすら意識といった道具を使う。②無限を実感する、空の知恵。③慈悲・愛のエネルギー。まずは、この三つ巴のコラボが基本となって、一人一人の心のなかから世界へと広がっていくわけですよ。

そして、集まった『慈悲・愛のエネルギー』でもって、ゆくゆくは悟りの境地=科学の黄金文明に入っていく・・この記念すべき日に、そういったようなエロヒムの思い・ビジョンなるものを想いめぐらすわけなんですね・・つづく

ここで 一句

悟りとは 慈悲のこころの 集積地

*四月の第一日曜日* エロヒムが、地球で最初の人間を創造した記念日を祝して。。