・・再びYU-AIさんからの、哲学について・・・エロヒムは物事を考える時には四つの基準があって、その基準に従って考えるようにと教えているんですね。
つまり、「個人・社会・エロヒム・無限」といった四つのレベルですね。 そのなかでも、とくに「無限」を基にした考え方が最も大切だということでした。
そこで、無限を‟空・くう”といったフレーズに置き換えて、その無限の性格・在り方から導いてきたモノを仏教用語を使いながら「空の知恵」としてご案内してきたわけです。
まぁ、考え方というと‟哲学”といったフレーズが一般的だと思いますが、この哲学・フィロソフィーの語源はギリシャ語で、「(幸福に至るための)知を愛する」といったような意味になるわけですね。まぁここで言う‟知”というのは知識・知恵・知能・知性といったようなニュアンスなのでしょうね
そこで、エロヒムが我々に教える哲学というのは、世間でよく見かける名言・格言の類の知識を知ってそれを記憶するだけ・・‟考える”だけの哲学といった‟頭でっかち”に終わってしまうようなモノではないということなんですね。
考える、知識を愛するだけ・・というのは、土がついた大根を料理をしないでそのままお客さんに出すみたいなものですからね。 そうではなくて、みんなに美味しく食べてもらうにはその素材をうまく料理する技術、能力がいるでしょ。もちろん、お客さんに喜んでもらいたいといった気持(愛のエネルギー)も大切なんですが、 そういった人間を幸福に導くための能力を「知恵」というのではないかと思うわけです。
それでは、どうすればその知恵が身に付くのかというと、瞑想なんですね。 哲学が単なる知識を超えてしっかりと自分の身に付くためには、瞑想の繰り返しのなかでその哲学を心と体で‟実感する”必要があると云うわけなんですね。
まぁ、「哲学を実感する・・」といわれて可笑しく感じるかもしれませんが、考え方・知識というモノはこの実感によって機能していくモノなんですね。これは仏教でもラエリズムでも一緒・・。
この実感を繰り返しながら『なるほど、こういうことなのか・・』と、じりじりと理解を深めていく。つまり、自分のなかでは実感=真偽の検証をしながら真実にアプローチしていく・・まぁ、実際に自分自身で体験し観察するわけですから、これは云わば科学的な態度、その原点とも云えるモノではないでしょうかね(笑)。 ですから、『瞑想とは感じる哲学である』と謂われるゆえんがそこに在るわけなんですね。
そこで、仏教哲学の代表的なモノとしてひとつ目の「諸行無常」、そして二つ目のラエリズムから「宇宙は無限で、‟わたし”は無限の一部、永遠の“チリ”でできている」といった、エロヒムから教わったこの両者の哲学を例にして言いますと・・
たとえば、仏教では昔‟ヘビ”が仏陀に教えた「四諦八正道」といったシステムがあるんですね。 この八正道の構成をみるとお解かりのように、正見(正しい哲学・無限)によって正思(慈悲・愛の思い)が生まれ・・そして正念(意識を使った)瞑想が生まれ・・哲学・愛・意識の三つのコラボですね、そこから知恵(人間を幸福に導く能力)が生まれる・・といったように、うまく出来たシステムになっているんですね。
そこでは、仏教特有の考え方を瞑想の中で繰り返し実感するというのがポイントになるんですね。 例えば、すべては変化するといった意味の「諸行無常」という考え方があるわけです。「無常=変化する」というのは、これもご案内のように‟ヘビ”が仏陀に教えたモノのひとつで・・すべてのカタチは永遠に変化し続ける無限の性格・在り方であって・・無常というのは、云わば無限のシッポみたいなものなんですね。
これを瞑想(無常観)の中で、納得するまで自分の心と体を観察(訓練)するわけです。 そして、日常のなかでも環境や自然の変化や人生の浮き沈み、親しい人の死や離別を経験しながら・・その無常感を味わいつつ『すべては変化していくんだなぁ・・人生は自分(わたし・エゴ)の思うようにはならないものなんだなぁ・・』といった具合に‟気づき”もあり、‟ありのまま”の現実を謙虚に‟受け入れていく”ようになる。
・・しまいには無常になり切ってしまう、生老病死すべてが変化だと、自分が変化そのものだと・・ラエリズムで言えば『わたしは無限、永遠の‟チリ”だ・・』にリンクする。そうなると、面白いことに心がどんな変化でも嫌わないで、受け入れて楽しめる・・人生すべてが‟遊び”だ、空だ、自由なんだ・・といったような心境にもなっていくものなんですね。これを『観照の作法』が身に付くともいうわけです・・まぁ、仏教の禅でいう処の‟悟りの境地”みたいなモノです・・
ここでのポイントは、諸行無常といった真実・哲学を「観察(意識)する・瞑想する」ことで、変化を‟受け入れる”わけですから・・知らずに「受け入れる、許す、認める」といった心もようを作っていくための慈悲・愛のエネルギーが『生きるために使われるエネルギーとして、大いに使われた』・・ということですよ。
つまり、エゴ(わたし)ばかりに向けられていた(生きるための)エゴ・エネルギーが別の方に向けられる・・エネルギーの方向転換なわけです。まぁ、この方向転換されていくモノを「慈悲・愛のエネルギー」と呼ばせてもらっているんですが、このエネルギーと意識が自分から今度は他人に対して向けられる。そこで、慈しみや哀れみ・同情心といった善き感情が大いに発揮される・・
そこで、自分も他の人もみんな一緒といった感覚にもなって、慈しみや同情心と共に他人の喜びも自分の喜びと一緒・・といったように自他の壁も無くなっていく。自分に対する色んな執着(エゴ)から段々と離れていくような、そのような目には見えない仕組みになっているんでしょうね。
こういった実感のプロセス・瞑想のなかで「諸行無常・すべてが変化する」といった哲学が意識(観察)・慈悲・愛のエネルギーのコラボによって単なる‟考え方”を超えて、生老病死に関わる様々な‟苦”が和らぎ、幸福に生きるための知恵として機能していくようになるわけです。
この「四諦八正道」のシステムと同じように、『官能瞑想』のシステムを観てみると、「時空の無限と生命創造の無限性・‟わたし”はその無限の一部である、つまり永遠の“チリ”だ・・無限そのものだ・・」といった究極の哲学を瞑想の中で実感させてくれるわけですね。
まぁ、これはご案内のように既存の宗教的教義などの窮屈さ・偏見に邪魔されることなく、また辛い・痛いといった修行的要素もないので即、誰でも簡単にできて幸福感を実感できる・・そんな瞑想システムになっているわけです。
基本的には、簡単に云うと我々の心と体の設計図・DNAに描かれている「快楽原則」に従って幸福感を味わうような構成になっているわけです。無限を意識して無限小から無限大のなかに自らを置いて、それらと自己を結び付け無限そのものを実感する。
そこで同時に、ご案内のエゴ(わたし)エネルギーから慈悲・愛エネルギーへの変換が行われるわけです・・。まぁ早い話、これも哲学・意識・愛の三大コラボによって狭い世界に居るエゴ(わたし)を無限に向けて開放してくれるんですね。
そして、すべての銀河と細胞、自己と他の生命を‟意識的”に結びつけるわけですから、同じ‟チリ”としてね‟チリ”であることを受け入れる、すべては一つだと・・そこで自然に「結びつける・調和する・仲よくする」といった時に使われる慈悲・愛のエネルギーを使うことになる。そうこうしながら、日常で『私が・・俺が・・』といった余計な自我感・自我意識ですね、そういった‟りきみ”が段々と薄らいで謙虚な気持ちになっていく・・
結果、保身のために使われるエゴ・エネルギーがもたらす生への色んな執着や悪感情、死への不安や恐れ、そういったものから解放されて・・目に見えるモノから目に見えない全てのモノに、‟無限”に自分は生かされている、愛されているんだなぁ~・・といったように、幸福感と感謝を味わう事にもなるわけです。
ですから、無限の一部つまり単なる永遠の‟チリ”で出来ている自分というモノを自覚する・・そのことが謙虚にさせてくれると同時に、その「自分が広大な無限と見事に一つになっている・・‟わたし”は無限そのものだ・・」ということすら実感する・・
さらに、そこから無限大から無限小に生きる生命の意識も自分が使っている意識も慈悲・愛のエネルギーも同じ、すべての生命体は一緒だという理解あるいは洞察といったモノも生まれてくる・・。
そしてこの理解・洞察によって、無限の宇宙に遍在する生命体が持つ普遍的な高い意識、まぁ『無限意識』ですよね。その無限目線から物事を観る知恵といったモノを知ることができるようになる・・自我意識から無限意識へのボリュームアップ・・それは限りなくエロヒムからの目線に近いモノ・意識を超えた超意識ともいえるモノではないでしょうか・・。
「宇宙は無限で、わたしは無限の一部、永遠の“チリ”でできている・・」といった哲学が、単なる知識や哲学を超えて身に付く、知恵として機能する・・そしてその知恵が自分の人生、日常の幸福へと導くということです。哲学を実感するためには瞑想の実践が大切なんですよ・・といった一連のつながりがこういうことなんですね。
このように、「諸行無常」も「私は無限の一部・永遠の‟チリ”である」にしても、エロヒムから教わったこれらの哲学は我々の日常の中で大いに貢献してくれているわけです。というのも、この哲学は両方とも『無限・空』から導いてきた知恵として使えるモノなんですね。
ですから、こういったような瞑想のシステムはヒトが幸福に生きるために必要な智恵として、無限の過去からその時代の人たちに使われてきたでしょうし、我々もこの知恵を必要とするわけですから、エロヒムも瞑想といったシステムでもって我々に教えてきたのでしょうね。
まぁ、元々エロヒムによって我々の心と体の設計図である遺伝子・DNAは、自分が無限を実感して慈悲・愛のエネルギーが発揮されると、そのエネルギーと高い意識を使って得る喜びによって自分の遺伝子じたいも喜ぶ・・そのようにプログラミングされているんだと思います・・この幸福なるプログラミングは、エロヒムからそのまた親エロヒムから更に・・ ∞・・と、我々に継承されて来ているのではないでしょうかね・・
エネルギーを慈悲・愛のエネルギーとして使うというのは、本当に大切なことなんだと思いますね・・無限に引き継がれていくものですからね。人間を幸福に導く‟知恵”を動かしている成分の120%は、このエネルギーによって成り立っているんではないでしょうか(笑)
まぁすべての人間を幸福に導くゆえに、このエネルギーによって動かされる人間の能力である‟知恵”の事をエロヒムは、あえて『科学』と云っているわけなんですね。
そして彼らは、この知恵の極みを表わす「悟りの境地」のホントの意味は『科学の黄金文明』である・・と云っているくらいでしょ。ですから、その幸福に導く知恵はこの慈悲・愛のエネルギーによって支えられているんでしょうから、ホントの‟悟り”というのは『愛の黄金文明』と云ってもイイんではないでしょうかね・・
そういったわけで、情報を詰め込んで話が少し長くなりましたが、エロヒムから学んだ「無限の哲学」を知識の肥やしだけにしておかないで下さいということでした・・そして「官能瞑想」を引き続き実践して、そこで意識と慈悲・愛のエネルギーを大いに使いながら、その哲学のエッセンスを実感していただければ・・と思います。
ここで一句
哲学が 愛と意識で 知恵になり