さて、“苦”というものはどういったものなのか、これが『快楽原則』を基本にした表裏一体になっている我々の苦・楽のシステムとどう絡んでいるのかということなんですね・・ 。
『快楽原則』というのは、我々の思考や行動でも何でも一切、その動機も目的も結局は快楽を得るためにするということなんです。
それはご自身のことを振り返ってみるとよくお解かりになると思うのですが、つまり誰一人として『これから苦しむために○○するんだ・・』と、そういった意気込みでモノを考えたり行動するヒトはいないわけですよ。
苦を感じるのは嫌だから、不快ですからね『一瞬たりとも苦は味わいたくない・・』というのが、あたりまえでフツーだと思いますよ。意識的にしろ、無意識的にしろ、出来る限り苦を避けて楽を求めるわけです。
『快楽のためなら死んでもイイッ!・・』みたいに、どのような苦も厭わないでするというのも、我々が快楽主義であることを物語っているんですね。例えば、犠牲的な行為といわれるものであっても 表面的にはその人が世の中の苦しみを
すべて一手に引き受けているのではないかといったように見えても、その裏には必ず快楽が隠れているわけです。例えば、一緒の海で溺れているアカの他人を助けるために、自分が身につけている救命具をその人に譲って、自分は海の藻屑に消えていく。
そういった犠牲的精神にしても、溺れ死ぬ不快=苦よりも人を助けるための快楽のほうが大きいからであって、戦争中にお国のためにと敵艦に向かって突っ込んでいった特攻隊員にしても、
鉄の塊にぶつかって死ぬ不快よりも祖国のため、国に残してきた愛する家族のために、あるいは死んで極楽浄土や天国に行けるほうが快楽を与えるからそうするわけなんですね。人間はどこまでも、快楽主義なんですよ。
しまいには、不快に感じるその“苦”さえも歓びにしてしまう、そういった倒錯的な快楽もあるということですから。それは病気にしろソチラの世界の趣味にしろ、人間はそれだけ快楽には貪欲であるということなんでしょうね。
もちろん快楽の質やその方向性というものは価値観が違うように、人それぞれでビミョーに違うと思うのですが、人間はすべからく『快楽原則』のシステムによって動いているということには変わりが無いということなんですね。
そして、この快楽原則のシステムには 苦・楽のコントラストが必ず必要なんだということなんです。そういった人間の普遍的な“決まり事”を踏まえて、我々の苦楽の様子を見て見ると・・。 例えば、ロボットなんかはこの苦楽の基本的なシステムに従って動いていますよ。
バッテリーの残量がある程度減ってくるとセンサーが働くわけです。まぁ、人間ならば空腹感=不快感=苦を感じて食欲中枢が働く。脳がご飯を食べなさいと指令するようにね。そこでロボットは電源の所に行って充電する。
しばらくして、バッテリーが満タンになったところで充電スイッチが切れる。我々もご飯をいっぱい食べ満腹になって、食欲が満たされ気持ち良くなるのと同じなわけです。そこで、不快さ=苦はいったん無くなるんですね。
しかし、しばらく動いているとまたバッテリーが底をついてくる。空腹=苦を感じる。そこでまた食欲が出てきて、何かを食べる。そうすると満足するので、その時は苦を感じなくなって、快感を感じているわけです。
こういったように『無限との交換』をする時には、まず不快=苦を感じるセンサーが働く、我々の脳内ではそういった化学的反応が起きるようになっているんですね。
そして欲望が満たされることによって、苦を感じることがいったん無くなる。しかし苦も欲も無くなるわけではないんですよ。苦を感じるシステムは死ぬまであるわけですから、常にこの苦と楽のコントラストはあるわけです。
例えば、我々は楽だといっても、ずっと何時間も椅子に座っているわけにはいかないんですね。そのうち腰も痛くなって苦を感じてくるわけですよ。苦しみ・痛みはあまり長くは感じたくない、楽になりたいと思う。そこで今度は、立ち上がって歩いたりするわけです。
我々もそこで少しは知恵を使うんですね。すると楽になって、気分がイイわけです。 しかし、しばらく歩くと今度はひざなんかが痛くなってきたりする。段々と苦を感じ始めてきて、そこでまた痛いのは嫌だから座りたくなるんですね。
歩いてあれだけ気持ちよかったのに、今度は逆に歩くことが苦痛になってくる・・。・・そこで、また座るんです。座るといったん苦は消えて楽になる。そして『あぁ~、楽チン楽チン・・』といったアンバイ・・。 つまり、楽だと思って椅子に座っても、自分では感じないレベルで、少しずつ「苦の針」がレッドゾーンに近づいてきているんですね。
そこで、いつかそのレベルに針が入って、あるレベルでもって苦に耐えれなくなって、座っているのが辛くなる。そこで立ち上がったりするわけです。
その時に感じる快感・幸福感というのは、苦しみや不幸な状態から抜け出すから味わえるんですね。苦が強いほど、そこから脱した時の快感もまた強いんですよ。
マラソンを走りきった後の充実感・爽快感とか、長い断食明けの特に食事した時の強烈な幸福感を味わっている方でしたら、よくお解かりになるのではないかと思いますよ・・。
試しに、息を吐いた後に少しのあいだ息を止めてみると解るでしょ。30秒も止めていられれば精一杯で、我慢できず苦しくなって息を吸うことになる。今は死にたくない・・苦からは逃げて生きたい・・そして生きて、快楽を得たいがために息を吸う・・。これも、快楽原則における「苦・楽のコントラスト」を使った快楽指向のシステムが、我々の遺伝子にインプットされているからなんでしょうね。
しかし、『苦』にスポットを当てた仏教的な観かたからすると、こういった苦と楽のコントラストについて、(快)楽というのはほんの一時で、それは苦から次の苦に逃げる間にある一瞬の休憩みたいなモノ、つまりこの世界は四苦八苦の連続、いや一切皆苦であると観るんですね。
なぜなら、そんなに強く感じてはいなくても このいつも有る空虚な部分を主役にして『・・生存は、常に“苦”であり不満である・・欲望は限り無く、底の無い瓶に水を満たそうとするように・・その物足りなさ・やり残し感・空虚感・不満性を満たそうとする。それゆえ生は苦であり、不完全なものである・・』と云うわけで
そういったように、苦を主役にしている仏教特有の人間観・世界観が出てくるわけです。確かに、こういった苦にスポットを当てた処からの人間観察は、とても興味深いものではあります・・。