・・空・無限においては“苦”は無い。しかし「無限の一部」である人間には“苦”はある。そして、なぜ我々は“苦”を感じるのかというと、「生きているから・欲望や感情があるから・(わたし)自我感があるから・DNA(快楽原則)のプログラムがあるから・・etc・・」ということになる。
しかも,“苦”を必要以上に味わなければいけないといった理由は、我々には「知恵が不足しているから・・」ということになるのではないでしょうか。
そこで、仏陀は人間の“苦”を少しでも減らし・やわらげ・無くしていくための色々な“知恵”ですね、例えばご案内の「空の知恵」や八正道といったシステムあるいは瞑想技術といったものを“ヘビ”から伝授されてそれを地球に広めたわけです。
こういったモノは、我々の生老病死すべての“苦”を根本的に無くすわけにはいきませんので、まぁ“苦”にやられてヨタヨタと歩いている我々にとっては松葉づえのようなモノかもしれませんが、現在の処これは必要なモノなんですね。
少なくても、心の病「苦・痛み・悩み・煩悩・・etc・・」そういった「苦」に冒されている人間にとっては、医者から病人に渡される処方箋みたいなものですからね、治したいのであればどうしてもこれを実践しなくてはいけないんですね。
そこで、人間を陰から援助・救済するために、少しでも楽になるようにと“ヘビ”から仏陀に与えられたこういった知恵は、仏教を通して3000年近く使われてきたわけです。
そして、その効果についてもまぁ多少の神秘的な難点を残しつつも、仏教は長年の実践と実積を積んできて、現在に至りエロヒムからもその役割と実績の評価をいただいているわけです。
そういったなかで、ここでもその「空の知恵」のいくつかをご案内させていただいているわけです。そこで、仏教のなかでは説明が一番むつかしいと言われている「無我」について少し観てみようと思います。
まぁ、我々は日常で「いま、考えているんですよ・・」と言うわけですが、その思考の陰には必ず“わたし”が隠れているわけです。「わたしが、考えている」ということですからね。それをフツーは主観というわけですが、もちろんその考えは自分が正しいといった前提で考えているんですね。
そこで、その考えを“わたし”が考えていると思っているわけですから、その考えはわたしのモノということで所有する、観念の所有化ですね。さらに進んでその観念に執着する、そして固定観念になってそれがしまいに偏見になる。
この一連の「わたし」といった一本道を知らないうちに進んでいくうちに、途方もないエネルギーを増殖して様々な苦を生んでいくことになる。これを仮にエゴ・エネルギーとしましょう。エゴ・わたし・我・自我・自己・・色んな呼び方は在りますけれど、こういった“わたし”の方向へあらゆるモノを引っ張り込むブラックホールのごときエネルギーです。
いったんこのエネルギーにつかまってしまうと、自分の思うようにしないと気が済まなくなる。「わたしが、俺が・・」といって、とことん自分の正しさを自己主張して、度がすぎると『あいつはエゴが強いからなぁ・・』とかエゴイストとか言われるんですね。
しかし、よく観てみると「わたし」というのは時間とか昨日とか川・花・国家・神・・etc・・といったモノと同じだと、仏教ではいうわけなんですね。これらは単なる名前、概念でしょ・・ということなんですよ。実際には無いのに有ると思っている、妄想みたいなモノだとね。
例えば、「時間」というのも、我々の都合で勝手に明日とか昨日とか区切っているだけですからね。川だって、水が流れているから川ですしね、花だってどこからどこまでが“花”なの?ということになる。種をまいて、そこから芽が出る、しばらくすると葉が出てくる、またしばらくしてくると蕾・つぼみがでてくる、そして蕾がひらく、そして枯れていく・・。
この一連のプロセスが“真実”であって“ホンモノ”だということなんですね。つまり「花」というのは存在の本質ではなくて、便宜上の名前、概念にすぎないというわけです。人間もこれと同じであって、産まれた時は赤ちゃんと呼ばれ、
しばらくして坊やとか言われ、そして青年、おやじ、おじいちゃんなんて言われる。プロセス・変化成長に合わせてまるで出世魚みたいに名前が変わっていくでしょ。一体どこに“わたし”なんかが有るのだろうかということなんですね。
まぁ、無我の仏教的な解説はこんなアンバイで・・今なら我々も『遺伝子・DNAのプログラム』といった生き物すべての設計図を知っていますからね。花や人間の正体、つまりプロセス(真実)はこのDNAと呼ばれる図面のなかに、すべてが描かれているのを理解しているわけです。
例えば、花弁の色・形・香・いつごろどうすればこの蒔いた花の種から芽が出てくるのか、芽のあとに葉がその後に蕾が出てきて最後に花が咲いて枯れていくといった順番も、この花のDNA=設計図のなかに始めから書かれているというわけです。
人間もそれと同じで、十月十日で産まれてしだいに老化して、染色体の端っこにあるテロメアの機能によって、長くても120歳くらいで死んでいくようになっているわけです。
といったわけで、エロヒムによって設計されたこれらの決められた心と体の機能=ゲノム(遺伝情報)のことが、私(我・自己・エゴ)であることをまず知る。そして、そのゲノムも無限の物質・チリで出きていることを知る。つまり、私というのは永遠の‟チリ”なんだと・・。
そこで、最終的には「真実の私とは無限である・・」といったような『無限・空(くう)』の話になって行くんですが・・
まぁとにかく、遺伝子・DNAが見つかったのは二十世紀になってからですし、人類が無限・空の真実を知ったのは1973年でしたからね。3000年近く前に人々に「真実の私・我とは、無我とは、空とは・・」といったテーマを説明しようとなると、これはかなり難しくなるとは思いますよね・・