又々 ❝空・くう❞のお話

ご案内の『般若心経』のなかで、仏陀は“空くう・無限”についてこのように説いているんですね。「空・くうにおいては、生まれるということも滅するということも無い。

増えることも減ることも無い。汚いものでもなく清らかということもない。体も無く、心の機能も無きゆえに、感覚から意識まで無い。それゆえ老いも死も無い。・・・“苦”にまつわるものは一切無いのである・・」。

彼はありとあらゆるフレーズを使って、しかも詩的にその空の姿を弟子に伝えているわけで、まぁここではアレも無い、コレも無いといったあんばいで、無限のあり方を表現しているんですね。

とは言っても、何しろ無限は生まれるとか滅するとか、生きているとか死んでいるといったような存在ではありませんから、我々の知っている言葉や概念でこれを誰かに伝えようとすると本当に困ってしまうのではないかと思いますよね。

たとえ我々が日常で使っている“存在”といった意味でコレをくくろうとしても、それでもあまり意味を無さないような、かなりイメージが届かないような、無限とはそういった存在なわけですからねぇ・・

どうしても仏陀のように『・・無い、無い、無い・・』になってしまうのではないでしょうか。そういった魔訶不思議な“空”といったモノには「苦が無い」というわけです。

『空においては“苦”がない・・』ここがポイントなわけです。無限には(生死も無く)苦も無い・・これが「無限の一部」として“生きている”我々人間と無限との最大の違いだと思いますね。

云うまでもなく我々は日々“苦”の海の中にいて、アップアップで暮らしてしているわけでしょ。まぁ、ですから仏教では「一切皆苦」というわけですよ、生老病死すべては苦、四苦八苦であると・・。

そういったわけですから、生きているがゆえに苦があるわけで、まぁたとえ「悟りの境地」に居ようとも、限りなく無限に近い処に存在しようとも決して無限ではないわけで、やはりそこには‟苦”があるのではないかということになるんですね。

ご案内のように、悟りの境地というのは「科学の黄金文明」のことですからね、つまりそのモデルになっている「エロヒムの不死の惑星」に生きている人々においても同じように苦の種はあるということになる。

そこで、仏教でいう処の「苦」とは一体どういったものなのかと言いますと・・。例えば我々がフツーに苦と言うと、まぁ年をとって足腰が痛くて苦しいとか、寒くて死にそうだが死にたくないとか、つらい仕事でも食べるためには嫌々でもやらなければいけないとか、そういった苦ですね。

あるいは彼女にふられた、いじめがつらい、自分の子供に死なれた・・こういったような苦は世間には山ほどあるのですが、我々が『苦』なるものをイメージすると、“苦”は「苦しいの“苦”」ではないかと、まぁだいたいはそういった類の心身への直接的・感覚的な“苦”をいうわけです。

しかし、仏教で云う『苦』というのは、そういったネガティブな苦だけではなく、ヒトは何をやっても満たされない、満足したとしてもそれは一時的なものであって、そこには必ず不満・空虚感・もの足り無さ・やり残し感・・etcそういったものがあるのだ・・ということですね。

なぜならそれは、人間が欲望を持って生存しているからだというわけです。欲望があるゆえに完全を求め、成長を求める・・しかし「完璧だ、これで完全に満たされた・・」という物事はない。

欲望も成長も同じ、「生」それじたいが不満性・不完全性を抱えているのだ、苦なんだと・・そういったものをひっくるめて『人生は決して自分の思うようにはならない・・』と、原語(パーリ語)で「ドウッカ」=苦というわけです。

しかし、人生は苦だから自分の思うようにならないからといって、人間は一生死ぬまで苦にさいなまれなければいけないのかというと、そうではなくてご案内のように“知恵”によって、その苦を無くしていくことができる・・ということも言うわけなんですね。

ここがポイントなんですね。『苦は知恵によって解決する』ということなんですよ。

確かに、その通りだと思いますよ。何度も言いますように例えば、不死を実現した超ハイレベルの知恵=科学を駆使した環境のなかで生きているエロヒムにとっては、いま我々が抱えている「生老病死」に関わる様々な苦しみ・痛み・悩み、

そのような地球レベルの“苦”といったものはとっくの昔に彼らの知恵、つまり彼らはその『知恵を科学』と云っているのですが、その知恵によって解決しているわけですからね。

まぁ、我々のレベルの苦とは違っているにしても、彼らは彼らなりの創造欲・探究心そういった欲望はあるでしょうからね。仏教で言うように、欲望があるゆえに生は不完全である、苦である・・というならば、

まぁそういった意味では、彼らも彼らなりの「苦=不完全さ・不満・思うようにならないこと・・」を抱えているのかもしれませんね。

たとえて言うなら、この地球に住む我々人間といった存在なんかは彼らにとってどうなんでしょうか?長年にわたって、エロヒムの庇護を受けながらも、相変わらず兄弟同士が攻撃しあっているといった戦争文明のなかにいるわけですからねぇ、こういったこともエロヒムにとっては気がかりな案件で、まぁひとつの“苦”になっているのではないでしょうか(笑)・・。

とにかく、こういった苦に対しては知恵によって対処しましょう、「空の知恵」や慈悲のエネルギーなど、あらゆる知恵を使って、できるだけ苦を減らし、薄め、無くしていきましょうといったのが仏教のアプローチなわけです。

ですから、これも『般若心経』の一節にあるんですが、『故知般若波羅蜜多、能除一切苦(玄奘訳)⇔“悟りの知恵”によって、あらゆる苦が無くなっていく』ということになるんですね。

もう少し解りやすく言いますと、悟り=悟りの境地というのは「科学の黄金文明」のことで、知恵は広い意味で「科学」のことですから、

『(エロヒムの惑星のような)科学の黄金文明を創っていく人間の知恵・人間の科学的な能力によって、あらゆる苦を限りなく減らし無くしていくことができる・・』と、ここではこういったようになるのではないでしょうか。