色即是空的こころ・・❺

・・まぁ、でも他人に足を踏まれて・・ケース①『痛てぇー、どこ見てんだコノヤロー・・』と言って、いまにも相手に殴りかかろうとする場面もあるし・・。ケース②『痛ッ、どうも~おかげで眠たい目が覚めました・・』といった場面もあるわけなんだけれど・・。

どちらの場面にも、自分をキャスティングできるわけでしょ。御案内のように、ケース②はイエスの選択したビジョンなんだけれども、この二つを比べてみると①も②も『痛み』は同じでしょ。

誰でも「感覚」ってものはあるわけだからね。ただちょっと違うのは、その“痛み”を『あぁ~痛いなぁ、もおっ!』というのか・・単に、あたかも他人の足を踏まれているのを観ているかのごとく・・『痛み!』と観るのか・・ということなのね。

主観(主感)!?では無くて、客観的に感覚を観るってことが違うわけです。まぁ、この客観性が身に付くのは、なかなか一朝一夕にはできない 、一つの「観察の訓練」によってできる技なんだけれど も・・。

「痛みは単なるひとつの現象・感覚として、これを観る・・」というのは、そういった訓練の成果なわけです。その流れを簡単に言うと・・まず“痛み”をよく実感する・・そして、その痛みから闇雲に逃げないで観てみる・・。

落ち着いて、それを観ることによって、まず「痛み」を少しは受け入れることができるわけです。それから、その“受け入れ”が「痛み」というDNAの大事なシステムがあって、それは我々が生きていくいくための 大事なプログラムなんだという“理解”に導いていくわけね。

そういった理解が、先入観で“痛み”じたいを“嫌悪する”といった感情に走るのを抑制してくれるから・・『痛み』でストップ!できるようになる。確かに、痛みといった感覚は気持ちの良いモノではない・・。

しかし、こういった感覚は永遠に続くものではないでしょ。そのうちに消えてしまうし、痛みがあるから生きているんだといったような・・そんな大らかなビジョンが段々と出来てくる。そして大事なことは、そういった“大らかさ”を作るモノですよね・・。

ここでは、(この場合は痛みを)受け入れる・理解する・・といった最も大切な『慈悲・愛のエネルギー』も、訓練のなかに導入しながらやるわけですからね。つまり観察(意識)と一緒に、最も重要なポイントというのは・・

そういった大らかさである「理解しましょう・受け入れましょう・許しましょう・愛しましょう」といった“心もよう”の基になっている・・ 云わば『慈悲・愛のエネルギー』を使いながら訓練していくのがポイントになってくるわけです・・。