色即是空的こころ・・❻

・・・・仏教の「観察」=瞑想は人間の心と身体とをつなぐ 色々な機能を観察するのが限界であって、『人間は“チリ”である・・』といった処までは観察できない・・と言ったわけです。

例えば、ご案内の“空・くう=無限”の二大特性である「無常」と「無我」というのがあるでしょ。無常というのは“変化”ということです。そして、この変化という現象は自分の心と身体を観察することで、ある程度は“実感”して理解できるものなんですね。

それに、我々のまわりにある自然のモノ・・花鳥風月などにしても、季節の変化にしても、その移り行くプロセスをじっくりと味わうこともできるわけです。

また“わたし”というのは、ひとつのトリックで、ホントは無いといった「無我」の観察にしても、これらは仏教のお手のものなんですね。

しかし、この無常・無我の本質つまり「人間=チリ」といった観察までになると、もうお手上げでしょ。我々の知恵もここまで・・。『これをどう観察すればいいの?・・』といった処でしょうね。

これこそエロヒムの高度な科学力=知恵によって、地球の土くれ"チリ”から遺伝子=生命の設計図を創ったこと、それが人間の本質を徹底的に観察した “真実”そのものというわけなんですね。

それに比べ、まぁ我々ができるとすれば、我々のそのささやかな知性=理解能力を駆使して、その真実の断片をいくらかイメージすることぐらいだと思いますよ。

なにしろ我々は自分の心と身体の観察さえおぼつかないわけなんですからね 。なかなか“チリ”なんて処までは届かないものでしょ? さてそれとも、我々の心と身体を形成している“チリ”を、エロヒムが持っているようなハイレベルの科学も無しで、

唯一彼らが与えてくれた我々の「意識する」という道具を使って、はたして“チリ”の処まで観察が及ぶのでしょうか?・・意識はどのくらい空・くうに近づくことができるのでしょうか・・。

・・というわけで、幸いにも我々にはエロヒムによって遺伝子・DNAに付与してもらった 『意識』のシステムがあるわけですから、その意識を多いに利用して、その果てしなき“空・くう”の入り口を覗いてみるのも 面白いのではないでしょうか?

まぁでも、その長旅をするにしても意識というのは筋肉みたいなものですからね。普段からあまり使っていないのなら、徐々に慣らしながら進んで行かなきゃならない。

そういった意識の訓練のために、エロヒムは『ハーモニー・メディテーション:官能瞑想』というものを教えてくれたわけなんですね。

この瞑想法は、従来の「痛い・つらい・むつかしい」といった 修行っぽい処は全く無いですしね。 誰にでも簡単に出来るものだから、さすがにうまく出来ているなぁと思いますよね。

・・まず『官能瞑想』のなかで、エロヒムの云う瞑想というのはどんなモノなのかというと、御案内のように「瞑想」のその原語のもともとの意味があらわすように、“訓練”なわけです。

「何を」訓練するのかというと、解かりやすく言うと 我々の“こころと身体”を訓練するということ。そして「何の為に」訓練するのかというと、我々が無限と調和しながら、“幸福に生きるため”に訓練することなんですね。

まぁ『このままで、そこそこ幸福だし人生満足なんだから、別にそんな訓練しなくてもイイわ、放っておいてよ・・』といった向きには関係のないハナシかもしれないけれどね。

しかしエロヒムから観ると、我々の人生ってものは、どうもあまり幸福そうには観えないみたいなんですね。だから訓練するんだよ・・ということなんです。彼らから観ると、我々はまだまだ本番の舞台で、

アドリブをご披露できるといったレべルではないというわけです。彼らのように幸福の極みに至るためには、更に更に訓練して、練習していく必要があるということ・・。

・・さてその前に、誤解を避けるためにある程度の言葉の整理をしておく必要があるのかもしれないですね。

例えば、エロヒムが我々に渡した「官能瞑想」という道を歩いていくうち、この果てしなく広い庭園は、はたしてどこまで続いているのだろうかといった気持ちになるかもしれない・・。

『なんてこの庭は広いのだろう、いくら歩いてもまるっきり先は見えない、いったいゴールはどこにあるのだろうか?・・』とね。

しかし『この庭というのは果てがないんだ・・無限に広がっているんだ・・』と理解するならば、あとは落ち着いて、この万華鏡のように美しく展開していく 景色を楽しみながら、安心して歩いていくだけで良いのではないのでしょうか・・。

別に道がそんなにつらく険しいわけではないし、迷い道や落とし穴があるわけではないからね。官能と喜びに支えられ、楽しく歩くうちに、我々の意識は鍛えられ、知らず知らずに理解能力・知性というものを成長させてくれるわけですからね。

歩くのを止めない限り、その物事を理解する能力というものも止まることはないですしね。こういったように、理解する能力の絶え間ない改善のことを 『覚醒』というわけです。

だから覚醒というのは、知性を更新して、更にまた改善し成長していく。これが限りなく続いていくわけだから・・。

そこで、まずひとつにはこの覚醒の意味を、仏教で云うところの悟り・解脱(げだつ)・涅槃(ねはん)などというものとを混同してはいけないということです。

つまり覚醒というのは、我々の持つ知性・理解能力あるいは「知恵の終焉・ゴール」をあらわす言葉ではないということ・・。

我々の意識や知恵というのは、いつまでも同じで進歩がないというわけではなくて、常に改善して更に更に更新して、無限を意識するようになるまで高めていくものですからね。

意識や知恵というのは無限の特質があるというのに、仏教では個人レベルでの「悟り」といった知恵の「幻の終着駅」みたいなものを作ってしまったんです。無限行きの汽車が走る線路には、どこまで行っても特別な人だけを待っている終着駅なんてモノはないですからね(笑)。

まぁそれゆえ、仏教はホントの“空”つまり『無限の真実』を知らなければいけないというわけなんですね・・。無限というのは不生不滅のフツーの‟チリ”で出来ていて=無我、我々はその永遠の“チリ”の創造の循環のなかに居る=無常・・という事。

そして、我々の心と体はその無限という‟チリ”で出来ているということ。それゆえ、無限と我々は一緒なんだ・・ということなんですね。特別なものは何一つ無いんですよ、すべては一緒といった無限意識ですよ・・

知恵でも意識でも何でも一緒、同じ無限の物質とエネルギーで成り立っているんです。ヒトは誰でも無限から来て、無限の中で生きて、無限に還っていく無限なわけですよ。自分(わたし・我)は空,無限そのものなんですね・・。

そういった真実の空・無限を知らなければ、無限と我々の関係を知らなければ、何も知らないと一緒なんですよ・・。

ここで一句

悟りなら 無限を知って ‟チリ”となれ