色即是空的こころ・・❾

・・哲学・意識・慈悲(愛)、この三つある門のなかで、ヒトがまず一番最初に入ってくるのが「哲学・考え方」の門じゃないだろうか?誰でも、考える事は昔から日常的にやってるわけで、そこからの理解が最初でしょ。 

無限小から無限大の宇宙の成り立ちを教えられ、それを学ぶ・・。そこで『宇宙は無限か・・なるほど・・』といったようにね・・。その後に、五感を通して“いま”を“実感”して、『宇宙は無限か・・なるほど・・』となる。

この理解が、ひとつの意識からの知恵なわけでしょ? 例えば、こういったモノが「意識という道具」を使った瞑想のシステムを支えているモノなのね。

実際、我々は今まであまり“意識”じたい意識して使ってこなかったわけで、決してそれに慣れているわけではないからね。

ましてや、哲学的なモノは一度学んで身に付くと、すぐには離れていかないんだけれど、意識はそれとは違って常に変化するものでしょ。

ツマミを上げれば高くなるんだけれども、放っておくと自然にツマミが絞られて、段々と低くなって聞こえなくなる不思議なラジオのボリュームみたいなものだからね。いつも一定だということはないでしょ。

別にボリュームが低いままでも生きていけるわけだしね・・。自動操縦の機械や飛行機だってちゃんと動いているわけだし・・。

そういったわけで、意識は体の筋肉みたいなモノで鍛えれば強くなるし、逆にいつも使っていないと弱くなっていく性質がある。つまり、意識の筋力が弱いと やはりこれも体の筋力が弱いのと同じように、色々な不都合が出てきたりもするわけです。

例えば、足の筋肉が弱くなると歩くのも大変になるだろうし、あちこちの関節や腰が痛くなったりするわけだからね。そういったシグナルが、意識レベルの低下によって「心の症状」として出てくる・・。

その代表が『怒り』という感情なのね。これが度々出てくるようになると、意識レベルが低下してきている・・といった目安になるというわけです。“怒り”というのは、もちろん無意識に出てくるでしょ。

誰も意識して怒ることはできない・・。『よ~し、これから俺は怒ってやるぞ~・・』ってわけにはいかない。気が付けば怒りが出ていて、後の祭り・・ということになるでしょ。

それゆえ、“怒り”が事あるたびに出てくるようであれば、意識レベルが下がってきているので“要注意”ってことを云うわけなんですね。 意識レベルが下がると、エゴの監視も弱くなるから、エゴエネルギーがパワーを増して貪欲さも増してくる。

そうなると、慈悲・愛のエネルギーがなかなか出てこなくなる・・。 エゴ(わたし)は自分の思い通りにしたくなるわけだからね。自分の思うようにならないとイライラしたり、怒りっぽくなったり、ごう慢になったりもするのね。

こういった処から、仏教では『怒り』が三毒の中でも最も悪いモノであって、心身に毒をもたらし、決して善い結果にならないと云うことがよく解かるわけです。それに、単に『怒る』といった感情だけでは済まなくなる。

怒りのエネルギーは、色々な形に変化して悪い影響をまきちらすのね。いわゆる 合併症みたいなもの・・。例えば、このエネルギーが他人に向かうと、所有欲と絡んで『嫉妬』になるしね。

これが自分の方に向かうと『後悔・落ち込み・悲観』といった、厄介な病状をあらわしてくるようになる。もちろんエゴパワーに力がついているから、他人を慈しむ(愛する)・他の人々の幸福を喜ぶことなんかはできやしない・・。

せいぜい愛着があるのは、“わたし”といった主語が付くものですね。それを『所有』するといったスタイルで執着する。『わたしの家族・わたしの家・妻・子供・・わたしの仲間・故郷・国・・わたしの考え・・etc・・』

こういったアンバイで、心の視野がだんだん狭くなってきて、ついには人・モノに対する執着や依存、考えに対する強い執着(主観~偏見~固定観念)いった症状に進んでいくのね。

まぁこういったように、病状が進んで悪化する前に、いまの自分の現状に早く気づくことが早期治療につながるんだけれど、最近なんかイライラが多いなぁ・・とか、批判がましいことを言うようになった・・とか。

あるいは、新しい接触がうとましくなってきて、ごく親しい家族や仲間としか過ごす時間がないなぁ・・とかね。

そういった兆候が出始めてきたら、意識レベルが下がってきたシグナルだと思って、気をつけるようにしたほうがイイんではないだろうかね・・。