続 『無の瞑想』のお話

・・非(再)プログラミング=自己プログラミングというのは、早いハナシ自分の「心の悪い“クセ”をなおす」ということなんですね。

無意識に出てくる‟反応グセ”を直すためには「意識」という道具を使わなくてはいけないものですから、意識を使う訓練から始めなければいけないわけです。今まで使ってこなかった意識の筋肉を使う訓練ですね。

そこで、この意識の筋肉を付ながらしかも集中力も養うことができる訓練法としてエロヒムが薦めているのが『官能瞑想』の中で行う『無の瞑想』なんですね。『無の瞑想』を実践するということで・・ご案内の三つ巴無限の「哲学・慈悲/愛・意識」のまず意識することにポイントを充てる。

つまり客観的に観ること、観察をしてみることですね。この客観性と観察によって、段々と先の広がり・普遍性が観えてくる・・そして洞察する・・さらに無限性も観えてくるようになるわけです。

そういった意識的な作業がこの『無の瞑想』の中にたくさんありますので、そういった意識全般の訓練をするということにもなるんです。例えば「反応しない」でストップ!するのも意識を使うわけですし、古いプログラム・雑念に対しても落ち着いてそれを客観的に観る・観察をする・・

また、出てきた雑念に対しての貪欲さ・悪感情・思考が反応として出ますからね・・まぁ、悪い‟反応グセ”ですよね・・それらも「ありのままのモノとして認める・嫌わないで受け入れること」が大切になる。つまり、無意識(反応)の意識化と慈悲・愛のエネルギーを大いに使うという事。そこで雑念の内容から、現状の心の洞察もできるようになってくる。

それに伴って、体の感覚や心の動きをクールに観察してみることも、また大切な意識の役割なんですね。気持ちが良い・・といった快楽、あるいは痛みやかゆみは嫌だ・・これらはすべてエロヒムによって最初から遺伝子にプログラミングされたシステムの反応でもあり、その感覚に対しての‟ありのまま”の感情ですからね。そういったモノをすべて意識化して受け入れること。

そしてその元にあるのは、そもそも‟楽を求め苦を嫌う”遺伝子レベルでの『快楽原則のシステム』があるからなんですね。

そういった感覚・感情をハイレベルな意識でもって、主観を外して科学的な目で平等に、しっかり観察して・・気づくこと・客観的に観ること・洞察することです。これらはすべて、「意識」といった道具がはたす役割なわけです。

『無の瞑想』を実践しますと、これら意識の道具のすべてをFULLに使いますので、というよりも「意識の道具」しか使いませんので、いわば「意識からはじまり、意識でおわる・・」そういった瞑想のエッセンスがこの『無の瞑想』にすべて盛り込んであると云ってもいいくらいなんですね。

例えば、この訓練をしますと誰でも途中で雑念が出てくるんですね。そこで、やはり初心者が一番気になるのは、雑念が頻繁に出てきて中々“無”になれないといった処ではないでしょうか。

ご案内のように、瞑想中には脳ミソがデフラグを盛んにやってますから色んな雑念が出ますし、体の痛みや痒みが気になって集中できないということも起きるんですね。しばらく放っておくと自然に雑念や痛みが無くなればイイんですが、中々うまくはいかないんですね。

そういった時に使って便利なのが“無言の言葉(黙語)”なんですね。観察瞑想(ヴィッパサナー)の技法のひとつに、初心者には特にやりやすいラベリング=黙語というのがあるんですが、それを応用したものです。なるべく雑念が起きないよう、余計な思考を止めるために黙語を充てるんですね。

例えば、瞑想中に雑念が出てきた処に、黙語で『雑念!』といったような簡潔で短い単語・言葉・フレーズを使って、意識的にその雑念にあてるわけです。雑念が出てきた原因を探したり分析したりしないで、黙語してただ放っておくんです・・意識化するだけにするわけです。あくまでも、クールに『雑念!』。

足が痛くなったら『痛み!』。考え事が浮かんだら『妄想!』といった具合に、一回で消えない場合でもそうやって何回か無言のラベリングをするわけです。コツはあくまでも客観的に、受け身の姿勢で対処するんですね(ここで、「客観視」といった意識の道具を使うわけです)。

まるで他人事のように『これが、雑念かぁ・・そのうち消えるだろう・・』といったアンバイでやると、不思議にスッと消えていくんですね。それでも消えない場合は、雑念に意識が集中しすぎている可能性があるので、

雑念からいったん意識をそらして、例えば息をして膨らんでいるお腹の膨らみを感じる処、息の通る鼻の処に意識を強く集中してみたりするんですね。

そしてその膨らみとか息が鼻の穴を通る感覚とかを感じながら、それらを少し観察してみる(観察、これも意識の道具)・・そういった事もしてみるわけです。

ここで思うようにいかないからといって、いつもの“クセ”=古いプログラムを使うこと、つまり感情的になったり、力づくで何とかしようとかはNG。

そこで、いったん感情・欲望・思考は使わない・・即反応しないで「ストップ・待つ」ということです・・あたかも無限になったかのようにクールに・・。使うのは意識だけ、起きる現象を観るだけですからね。

『あぁ、また雑念だぁ~・・(嫌だなぁ~)・・』といったように、イライラしたり“嫌”(嫌は怒りの感情)といった感情が入ると中々消えませんし、欲を出して無理に雑念を消そうと思っても消えませんので・・それらは、脳ミソのシステム=デフラグに任せておいて放っておくんです。

自分の思うようにいかないから『嫌・・』とか、あるいは体のどこかが痛いから『嫌・・』といった怒りの感情が出てくるのも、これは遺伝子レベルの苦の感覚は嫌で避けたい、逆に気持ちが良い・快楽の感覚は受け入れ・求めるといった『快楽原則のシステム』に沿った自然の反応ですから、これも‟ありのまま”の現象として観るわけです。

例えば痛みの場合、わたしが痛い!とではなくて、“わたし”感=主語を外して客観的に『痛み・・』と黙語してストップ。痛みに無意識に反応して即組み替えないで、いったん痛みを観察してみる。そして、足の痛みが続くのであれば余計な我慢をしないで『組み替える』と黙語して足を組み替える。そこで、痛みが消えて楽になったら『楽・・』と黙語する。

ここで苦から楽への変化・・つまり、足を組み替えるという「知恵=意識と慈悲・愛のエネルギー」を使うと痛みが消え楽になる・・といった遺伝子レベルの「苦→知恵→楽」プログラム=『快楽原則』のシステムを、感覚と感情の変化を通して、それらをよく観察しておく。そして収まったら、また呼吸に戻って、そこに意識を集中させる。

『嫌だなぁ・・』といった感情が出てきたら『嫌だと思った・』と黙語してストップ・・出てくる感覚・感情その他何にでもすぐに反応しないで・・そのように淡々と、黙語をその現象にひたすら充てて・・只々客観的にあたかも他人の眼で見るかのように、心と体に起きてくる現象を観察するだけにして、まずは放っておくわけです・・

これはどうしてなのかとか・・うまくいかないのはなぜなのかとか・・そういった古いプログラムでの思考・固定観念や価値観、宗教的刷り込みに基づく詮索や勝手な判断・主観的な決めつけは一切しない、神秘的な解釈もしないこと。余計な思考・欲望や余計な禁欲さ・怒りなどの悪感情は使わないことです。

あくまでも、クールに客観的に、『あたりまえ・・放っておけ』といったような受け身の姿勢でもって、雑念で出てくるモノは認める・何でも受け入れましょう・・といった見守りの捨の心で、慈悲・愛のエネルギーで対処していくのがポイントですね。まぁ、最初は気づいているだけで十分ですから・・とにかく使うのは「意識」といった道具だけですからね。

つまりすべてを広い心で受け入れて、欲望・感情の反応に振り回されないように一旦ストップする、すぐ反応せずに少し待って観てみる。・・意識の筋肉を鍛えるためにすべてを客観的に観る、気づく、観察する・・そういった意識の機能全般と慈悲・愛のエネルギーを色々と使いながら、自分なりの意識の使い方、集中のやり方をみつけていくわけです。

・・まぁ、クセと言ってもどんなクセ(古いプログラム)が悪いのかといいますと、例えば、怒り、嫉妬・落ち込み・悲観・傲慢・攻撃心・不安・焦り・落ち着きの無さ・・etc・・そういったような我々が日常で当たり前に使っている心の習慣ですね、それと過ぎたる貪欲さや余計な禁欲ですね・・そういった悪いクセ=古いプログラムが雑念として、その反応として瞑想中にも出てきます。

何度もご案内ですが、特に貪欲さ・怒り・空・無限を知らない無知この三毒に冒された心処・しんじょ=エゴ的“心もよう”ですね。この悪い心もよう=不善なる心処を使うたびに習慣化されて、長いあいだ使っているうちにそれがクセになり・・日常の中でも、瞑想中にでも色んな場面で無意識のうちに出てしまうんですね。

たとえ、それが善くないことだと解っていても、ついつい出てしまう。そこで『解っちゃいるけど、やめられないのよねぇ・・』と言うわけです。ラエル氏はこれらの悪いクセを寄生虫だと、うまいことを云っていますが・・

意識という特効薬をフルに使って、気づく・ありのままに観る・観察する・洞察する・・そして、それら「寄生虫の思いどうりにさせない」ように・・そういった我々の“心の悪いクセ”を直す、つまり非・再プログラミングしましょう・・ということなんですね。