『無の瞑想』のお話

八正道の⑦「正念・しょうねん」=意識・気づき・観察、⑧「正定・しょうじょう」=集中ということで、「無の瞑想」でのポイントは“反応しない”といったお話をしました。

『官能瞑想』の非プログラミングを行う時にする「無の瞑想」なんですが、その訓練法についてはあまり詳しい説明といったモノがありませんが、参考の為にこの「無の瞑想」の方法について少しご案内したいと思います。

例えば、お寺で座禅をしている場面があってそこで『無になる・・』といったフレーズをよく聞くんですね。では、この“無”というのは一体どういった状態をいうのでしょうかね?

まぁ、無念無想といったような表現でも使うわけなんですが、フツーに考えると「雑念が無い状態、石のように感覚も無く何も考えていない状態・・」そういったイメージではないかと思うんですね。

まぁそういったことなんですが、まるっきりの“無”というわけではないんですね。我々の頭のなかはいつも色んな考えや思いでグルグルまわっているでしょ。もちろん無意識の状態で勝手にまわっています。

そういった状態というのは、云わば信号機の無い交差点をたくさんの車が右往左往して、交通渋滞を起こし収拾がつかない・・それと似たような様子になっているということなんですよ。

ですから簡単にいいますと、そういった交差点に信号機を付けて交通整理をしなくてはいけなくなる。片方に青信号を出して、もう片方には赤信号を出してストップさせたりするわけです。赤信号で、ストップするでしょ。そしてそこで一旦、待つでしょ・・。

その信号機の役割をはたすのが「意識」といった道具なんですね。意識を使ってその意識という道具を集中力をもって・・観察力を大いに使って、すぐ反応しないで、止まって待つわけですよ・・待っている間に、頭のなかの雑然と動き回っている物事を整理整頓しましょうということになるわけです。

パソコンの機能をうまく働かせるための処理、デフラグみたいなものかもしれませんね。まぁ、そういったわけですから、「頭の中が“無”の状態・・」といった表現をしたとしても、これはひとつの方便ですからね。

実際は「意識」という道具を使っているわけですから、「無になる・・」というよりも、意識が活躍している状態といったほうが適切な表現なわけです。

決して、何も無いの“無”ではないんですね。例えば、我々の日常では『○○しよう、○○しなくてはいけない・・』と欲望といったモノがまず出てきて、『うまくいった、失敗した・・うれしい・・悲しい・・』といった具合に、その欲望には必ず感情が付いてきますし、

そこにまた『こうしたほうが良かった、ああしたほうがイイ・・』と思考が芋ずる式に反応して、さらにまたそれに別の思考が反応して、その考えたモノに更に欲望が重なってきて・・etc・・と、キリがないんですね。

とにかく四六時中、頭ミソの中に詰まっている欲望・感情・思考の色んなプログラムが反応しっぱなし状態ですから、そういった反応をいったん意識的にストップしてクールダウンする・・既成のプログラムを整理整頓、客観的に観る訓練。まぁ、云わば「心の断食」みたいなものですね・・それが「無の瞑想」のひとつのポイントになるわけです。

ふたつめのポイントとしては、この訓練をする場合のスタイル・姿勢はどうするのかといった問題ですね。それに関しては、まぁ、体の痛みや窮屈で苦しくないアンバイであるなら、それで集中力が保たれているなら結果オーライだと思うんですね。どのような形・姿勢・ポーズ・やり方であろうが、全然かまわないと思いますよ。

例えば禅なんかでも、座ってする座禅の姿勢がオーソドックスな形だと思われていますが、すわってやるから単に座禅というだけですからね。立ったままする立禅、歩いておこなう歩行禅、寝たままする寝(座)禅とホントは色々あるわけで、スタイルもTPOで夫々変わってきますから。

日本の禅寺でやっているように、結跏趺坐スタイルの両足を組んでやらなくても、背筋を伸ばして普通に楽にすわる、あるいは『官能瞑想』の基本姿勢のように横になって寝た状態(寝座禅)でやっても構わないと思いますよ。

本人のやり易い無理のないスタイル・やり方でイイわけです。ちなみに、私の場合ですと腰と膝が故障していますのでフツーは寝座禅か椅子に座った状態が基本でやっていますよ。車中の場合は、椅子に背中と頭をつけて座った楽な姿勢でやっていますね。

足は延ばしたままで、手はあおむけの腹のあたりに両手の指を組んで乗せています。このスタイルですと、床か椅子があればどこの場所でもできますからね。寝座禅のメリットは瞑想時間が長くなっても、足腰の痛みは感じないですし体に負担がかからないということですね。

たとえ2,3時間続けてやったとしてもまったく問題はないです。体に痛みや負担が少なければ、それだけ意識が分散しないで集中できるでしょ。ですから、障害をお持ちの方や初心者の方にでも無理なくできますので寝座禅はおすすめだと思いますね。

そういったわけで、TPOに合わせて自分の状態にあったやり方でできるわけで、スタイル・姿勢・形は別にコレでなくてはダメだといった決まったモノは無いということですね。

あと三つめのポイントは集中のやり方と意識の持っていき方ですが・・。これは、一言でいうとトライ&エラー、『やってみる・・習うより慣れろ・・』しかないんですね。

まぁ、そんなに難しいモノではないですからね。数回でコツをつかむ達人もいるみたいですが、やはり基本は何回も何回も繰り返しやってみて、難しく考えないで自分の感覚でおぼえていくしかないんですね。

例えば、ひとつのサンプルを言いますと・・その前に、まず体が調子悪かったり、考え事や悩み事があったりする時は無理してやらない事です。日をあらためて、ある程度体調が整って心の波がおさまって落ち着いてきたら・・まぁ気楽な気持ちで10分でも15分でもイイのでね、やってみてください。

この「無の瞑想」は心身の病気治療のためのモノでも苦行でもありませんし、義務感でもってやるモノでもないですからね。

そこで、自分の態勢を整えたら軽く両手の指を組み、目をつむって深呼吸を数回して、あとは普通の呼吸にもどします。そこからの大まかな流れを云うと、まず体のどこか一点に意識をもっていくわけですね。

息がふくらむ腹でも息の通る鼻の先でもいいですから、そこに集中する感じですね。自分の集中しやすい場所を見つける。そして体のその一点に意識を集中させると、体の他の部分に意識がいかなくなってくる。

たとえば、お腹に集中して息をする、膨らんだら“わたし”=主観を外した客観的な言葉を使って『膨らむ・・膨らみ』、息を吐いて縮んだら言葉を出さずに『縮む・・縮んでいる』などと黙語をあてて、腹の膨らむ感覚や縮む様子を意識しながら集中していく。

同じように、鼻ならそこに集中して息をゆっくり吸って黙語(口に出さない、心のなかで言う)で『吸っている・・』、ゆっくり息を吐いて黙語で『吐いている・・』の繰り返しですね。

それと同時に頭の中の考え事などの、いわゆる欲望・感情・思考絡みの色んな「雑念」が出てくるわけです。雑念が出てくるというのは、もうデフラグが始まっているということですからね。

しかし、雑念が出てきてもイイんですよ。『雑念だ。。。』とか『妄想。。。』といったアンバイで黙語して、放っておけばいいんです・・ポイントは雑念が出たら出たで、その雑念の内容に見合った“黙語=無言の言葉”でもって意識をそこにあてるわけです。

そして、収まったら再び最初に集中していたお腹とか鼻に意識を戻して・・心の中でお腹の場合は『膨らむ・・縮む・・』鼻の場合は『吸っている・・吐いてます・・』と、この繰り返しですね。『膨らむ・・』途中で何かを思い出したら→『思い出している・・』→『縮む・・』→『膨らみ・・』と、又お腹の膨らみ・縮みに戻る・・こんな感じです。色んな雑念が繰り返し出ますからね。

脳ミソが意識下でデフラグの作業をやっているわけですから、整理される古いプログラムなどが雑念として出てきて当たり前なんですね。ですから、デフラグの方は脳ミソに任せておいて雑念や妄想が浮かんで来たら、同じように『雑念。。。』と、そういったモノに対して意識のなかで“無言の言葉(黙語)”をあてる。

その言葉はできるだけ簡潔にシンプルな単語にする。何かの音が気になったら「あれは何の音だ・・」とか「車の走る音だな・・」といったようにゴチャゴチャ考えない。単に『音!』あるいは『聞こえた』それだけ、あとは放っておく(‟音”は、耳で直接聞こえた‟ありのまま”の現象なのでOK・・しかし‟車の音・・の”車は直接見たわけではないのに、主観や憶測・連想が働かせているわけだから=これらは思考の部類なのでNG)。思考の類は一切使わないこと・・

また『あぁ、昨日見たテレビの場面・・』といった長めのフレーズもNG、『雑念!』『妄想!』といった感じでいいわけで・・言葉も思考の部類なので、主観を外した言葉=黙語はなるべく少なめに・・。ポイントは、雑念が出れば連想せず思考せず、分析せず・・それを追いかけないで、とにかく放っておく・・広い心でただ淡々と、クールに見送るだけにする・・使うのは意識だけ。。。

例えば座禅スタイルでやっていて、足の痛みが出てきた場合にも自我感を出して「痛いなぁもう~=わたしが痛い」という感じではなくて、主語(主観)=“わたし”感を外して・・他人事のようにただクールに『痛み!』と、痛みを客観的に観てみる。

そこで痛みを感じても、少しのあいだ痛みの感覚を「痛み・・痛み・・」と黙語し観察するだけにして放っておくと、遺伝子レベルの『快楽原則』に沿った脳のシステムが勝手に発動して、痛みが軽減されたり無くなります。ここでのポイントは、痛みを感じても即痛みに反応して組み替えないこと。反応ではなく、落ち着いて意識だけを観察に向けてみるんですね。

2,3分放っておいてそれでも痛みが続くようであれば、無理をせずに『(足を)組み替える』と黙語し組み替える。そこで、痛みの感じが消えて気持ちがイイと感じたならば『楽』と黙語して、また呼吸に戻る。ここでのポイントは、痛み=苦は少しの間だけ感じるだけにする。余計な我慢はしない。苦の実感は解かればそれでよいモノであって、苦そのものを長く感じる必要は無いんですね。

同じようにどこかが痒くなったら『かゆみ!』と無言の言葉をあてる、そこで痒みの感覚に即反応してすぐ掻かないで、これも感覚だけを客観的に観て脳のシステムが働くまで2,3分様子を見てから・・それでもかゆみが無くならなければ、‟わたし”を外して『かきます』と黙語してかゆい所をかく、そしてまた呼吸にもどる・・。

ここでも、痛みの時と同じで・・、かゆい所をかいて“かゆみ”という嫌な感覚とその嫌な感覚を嫌う怒りの感情・・つまり「苦を無くして楽になりたい」といった遺伝子レベルの『快楽原則』のプログラムが発動するんですね。しかし、その“かきたい欲望”のプログラムに対してすぐに反応しないで一旦ストップしてみる。

まずは意識の筋肉を使って只『かゆみ!』と、その感覚だけを客観的に観て黙語してみるんですね。意識的に感情や欲望のプログラムに反応しないで一旦ストップ!してみる、つまり欲や怒りの感情のプログラムを使わないで意識して“待つ”。そこの“すきま”のなかで、意識と慈悲・愛のコラボがそこで育まれるんですね。

少しのあいだ待つことがポイントなんですよ、即反応ではなく一旦ストップしたり観察したり意識して待つことで・・意識するエネルギーによって「捨・ウペッカーの見守りの心」も育つんです。

このようにして、今まで使っていた反応(かゆい→嫌といった怒りの感情→反応して、すぐかゆい所を即かく)といった「欲望や感情主導の古いプログラムの反応」を使わないで、今度は意識の筋肉を使うわけですから、「意識を主導にした新しいプログラム」に再プログラミングしていく訓練が進んでいくということになるわけです。そこで、この落ち着いた観察によって、無意識のうちに『快楽原則』のシステムと慈悲・愛のエネルギーの働きで「かゆみとか痛み」は一旦おさまるんですね。

それでも、かゆみが続いて我慢できなくなったら、無理をしないでクールに『掻・かく!』と黙語して、他人の足をかくのを手伝うようにかゆい場所をかく・・そこで、嫌なかゆみの感覚が消えて気持ちが良いといった感覚があれば、それも『快楽・・』とクールに黙語する。

ここで一旦苦が消えて楽になるというのも、これも心と体の自然な遺伝子レベルでの脳の機能・システムですから、この苦と楽の感覚の変化・・心と体の感覚と感情の関係性もよく観察しておく。

収まったらまた何もなかったように『戻る(黙語)・・』と、元に戻ってまたお腹の『膨らむ・縮む・・』に戻っていくわけです。ここでの観察で解かるのは、痛みやかゆみは不快だと実感した後に・・足を崩して気持ちが良くなったのも、かゆい処を掻・かいて気持ちが良くなったのも、『快楽原則のコンセプト』=遺伝子レベルのシステムだということです。

これらの現象は『快楽原則のシステム』によって起きる心と体の単なる自然現象であって、痛み・苦を感じると脳内からそれなりのエンドルフィン等の快楽物質がちゃんと出てくるシステムになっているわけです。それは遺伝子レベルでの「苦を嫌い快楽を好む」ように構成されているエロヒムの描いた設計図どおりのプログラムだと読めるでしょ。

ですから、これは単なるシステムなのでこの感覚・感情を嫌わないで広い心で、意識主導でもって主語=わたし感を外して『痛み・・』でストップ!。あるいは『痒み・・』でストップ!・・感覚だけを客観的に観て、クールに黙語を充てる。

もし『嫌だ・・』といった感情が出てきても、ここでも芋ずる式の即反応はしないで・・これもただの感情=嫌悪感なので『嫌だと思った・・』と黙語をあてて放っておく・・。ここでも感情主導の古いプログラムを使った反応ではなく、いったん反応をストップして出てくる心や体の感覚や感情を客観的に観ることで、意識の筋肉を鍛える訓練になっているわけですね。

例えば掻くときにでも、他人の足を掻くのを手伝っているといった具合に、あたかも感情・欲望も思考も無い「無限の眼で観ている」かのように観てみる。

・・そして、その無限の意識で観察するかのように‟わたし”を外して、客観的に心と体に起きる色んな感情や感覚をクールに観るわけです。それが、日常でも欲望・感情主導の即反応ではなく一旦ストップして待つ・・そこで“待つ”=物事を冷静に観ることで、“優しさ”といった善い「心のクセ」をつける訓練にもなるわけですよ。

このように、遺伝子レベルでの心と体のプログラムである「痛みや痒みの感覚」そして「嫌だとか、気持ちがイイ・・といった感情」が次々とやって来ては消えて、消えてはすぐにまた次の感覚や感情がやって来る。

つまり、苦(痛み・かゆみ)→楽(苦の感覚が消える)→不苦不楽(苦でも楽でもない普通の感覚)→苦→楽→不苦不楽の繰り返し・・・そういった変化を実感しながら、その変化の流れも観察してみる。

そうすることで、物事は何でも変わっていくものだと、現象はすべて変化するものだと・・これが、仏教で云う処の『諸行無常』といったものなんだなぁ~と洞察できるわけです。

そして、こういったような、‟わたし”=主語を外しながらの・・繰り返し実感した心と体の感覚・感情、その止まることのない変化を通しての観察によって、この圧倒的な変化の流れのなかで自我感が消えたりもする。そして感覚と感情の実感だけ、つまりそれは遺伝子レベルで人類共通の普遍的なシステム・プログラムといった洞察につながっていく。

それゆえ、‟わたし・我”とは単なる概念であって自分勝手に作り上げたモノ・妄想なんだと・・ホントは“わたし”というモノは無い『無我』である・・といったような仏教的な解釈・理論が、このような観察によって読めたりもするわけなんですね。

それなら、そういった“わたし”といった自我感はどこから来るのか、そしてその色んな‟わたし”を動かしている「痛みやかゆみ」・「嫌だとか気持がいい」等の感情や感覚は何なのかというと・・それは、心と体の設計図=遺伝子/DNAのシステム・プログラムがあるからなんだと・・

“わたし”とは、エロヒムが無限の『物質“チリ”』で創った心と体の設計図・プログラムなんだと・・つまり、“わたし”もそのような機能やシステムで動き、自己プログラミング可能な優秀な生体ロボットのようなモノ・・ということが理解できるんです。

エロヒムが教えてくれた人間と宇宙の“真実”を我々が理解できるこの時代であるからこそ、それを納得できるわけなんですよ。ここの処の観察と理解が大切なポイントになるんですね。

つまり、五感を通しての喜怒哀楽や、好き嫌いを感じる感情・善い悪いなどの思考も、身を守って生き延びるための生存欲も・・防衛システムである免疫機能や自我感も含めて・・etc・・

とめどなく生滅する‟わたし”の心と体に起きる現象その正体は・・エロヒムが我々の心と体の機能を『快楽原則』のコンセプトを基本にして描いた設計図だということ。ヒトは誰でも遺伝子/DNAレベルでその設計図にインプットされたシステムに沿って動いているという事ですね。

そして、エロヒムの『快楽原則のシステム』そのコンセプトの主眼は、あくまでも楽を感じるための苦であって、楽が主役で苦は脇役の構成になっているわけです。

ですから、『苦→知恵→楽』といったように、苦を減らし無くして、より(快)楽を享受するために・・そのために遺伝子のプログラミングと脳の機能によって働く“知恵”のシステムを使うようになっているわけですよ・・。

苦は理解すれば良いものであって、余計な苦は長く味わうモノではないんですね。例えば、痛みやかゆみといった苦は、知恵を使って何とかしなさい無くしなさいといったサインみたいなモノなんですね。

ちなみに、日常の中でのちょっとした瞬間をとらえてその隠れている知恵のプログラムを観察したり、洞察したりは出来るんですね。例えば小さな虫が目に入ろうする(苦)と、その外敵が入らないように無意識に瞼が閉じるようになっている。

また、火事が‟わたし”の真近まで迫ってきたら(苦)『命が危ない、そこから逃げろ!」と警報ブザー(自我感)を発するし・・間違って海に落ちたら泳げない人でも、意識するしないに関係なく自然に手足をバタつかせて溺れて死(苦)を避けるようにするんですね。

こういったような自分=‟わたし”を守るために・・ゴミや虫が入らないようにまぶたを閉じたり、溺れないように手足をバタつかせたりする・・まぁそういった目には見えない所で苦を避けるための色々な知恵が、「遺伝子レベルのシステム」として無意識に発動するようにプログラミングされているといったわけですね。

この遺伝子レベルでの自己保存のためのシステムが観えてくる・・それが“わたし”の心と体を守り保護するためネットワークであり、正体であるわけです。この“わたし”を守り保護しようとする生きるためのエネルギーをあえてエゴ・エネルギーと言ったわけです。

ですから、エゴエネルギーを悪者のように言いますが・・生きているあいだはどのようなヒトでも、このエゴ・エネルギーをつかうネットワークからは逃れることはできませんよ。我々の目には見えないところで、生体を守るために大事なエネルギーとして働いているわけですからね。これは遺伝子レベルのシステムですからね・・ホントは『エゴを無くしましょう・・』なんて、簡単に言えるモノではないんですね。

ウィルスなどの外敵から‟わたし・エゴ”を守っている免疫システムなんかは、“わたし”が生きるために・・自己保存のために使われる知恵の最たるものモノではないですか。免疫細胞なんかは、最近の研究では医者から死亡宣告を受けてからも、しばらくは働いているらしいですよ。最後まで生体を維持しようとして頑張って機能しているんですね。

そういったわけですから、気持ちがよかったら『‟わたし”が気持ちがいい・・』ではなくて、‟わたし”感を外して『快楽・・』それだけ。“わたし”といった仮の名前・概念を外して、遺伝子レベルのシステム・プログラムだけを観ましょう・・

そういったようなクールな気持ちで・・単なる現象を追わず、それらは遺伝子のシステムなんだと、余計な詮索をせず放っておく。快楽も幸福感もすべて、「主観=わたし」を外して客観的に観る。

何度も言うようですが、このシステムは『痛み・苦=外敵に対しては知恵を使いなさい・・』といったように、痛み・苦・不快感は警告ブザーみたいなモノで・・それはエロヒムが作った遺伝子・DNA=設計図どおりの「苦を感じる→知恵を使う→楽になる」・・

これも普遍的な自然な反応=遺伝子レベルでの『快楽原則のシステム』に沿った脳の機能なわけですから・・観察だけにして、放っておくんですね。少し観察しておいて、我慢ができなければ知恵を使って・・つまり足を組みなおしたり、手を使ってかゆい所をかけばイイだけの話なんです。

嫌だと思ったら『嫌悪・・』と黙語してストップ・・かゆみが我慢できなくて掻きたいのなら、よけいな禁欲(習慣・固定観念・刷り込み)をせずに『掻く・・』と 黙語でストップ、そして意識的に掻いて気持ちよかったなら『快楽・・』でストップと、その実感だけを受け取って、クールに心と体のシステムを観るだけ・・。

出てくる雑念や感覚もすべての現象を、平等に客観的にありのままに観て、やりすごす放っておくことですね・・。快楽も苦・痛みもなぜ出てくるんだろうか・・とか、この苦や痛みを嫌と思うのは自我・エゴではないかとか、それは心が弱いからだとか・・etc・・そういったような余計な思考を使って、詮索・判断は一切しないこと。

使うのは観察したり、気付いたり、洞察したり・・そういった「意識」という道具だけですからね。心の観察にしても、不安とか怒り等の心の中に隠れているモノ・都合の悪いモノが雑念として出てきても否定しない、抑圧しない。まずは、一旦それらをすべて広い慈悲・愛の心で受け入れ意識化するだけにする、そして放っておく・・

この意識化が古い価値観・固定観念・迷信・宗教的刷り込み、そういったモノをふるいにかけて、古いプログラム(古い‟わたし”)が無限の意識と慈悲・愛=知恵に色づけされた新しいプログラム(新しい‟わたし”)に入れ替わる・・つまり非・再プログラミングをすることにつながっているわけですからね。

そして、ここでのポイントは精神分析のように、意識化したモノを自己分析したり原因を探したりしないことです。また、古いプログラム=潜在意識=固定観念や刷り込みによって・・光が見えたとか、細胞が震えたとか、仏や神が見えたとか・・人によっては雑念や幻覚として出てくることもありますからね。

そういったモノは観察するだけにして、実際にそのように感じたのであれば、同じように『見えた。。』『雑念。。』『妄想。。』と、即その現象をクールに黙語して、放っておく・・。禁欲思考からの分析や判断をしない・神秘的解釈もしない、そういった思考活動は一切NG。

それらは既存の固定観念や宗教的な刷り込み・古いプログラムが出てきているだけのモノがほとんどですから、すべて観察にとどめて、クールに見送るだけにする・・そういった現象に執着しない。古いプログラムは自然にデフラグされ、「無限・空の知恵の三つ巴」・無限カラーの新プログラムが脳ミソにちゃんと再プログラミングされていくのでね。

そのうちに雑念も痛みなども段々収まってきます・・。しかし、慣れてきても雑念は最後まで出ますからね。そのうち、広い見守りの心(無限の慈悲・愛のエネルギー)で・・『放っておけ。。。』といった一つの“無言の言葉”だけでもって、すべての雑念等を片付けられるようにもなりますね。

この“放っておけ”といった無言のフレーズが使われていくうちに、このフレーズが脳ミソに再プログラミングされ定着していって・・これが日常の中で、善いクセ(観照の作法)に反映されていくんですよ。

日常での色んな場面で、思考・感情・欲望にまみれた余計な主観・固定観念・刷り込み=悪いクセを外しての客観視・・物事を‟ありのまま”に観る善いクセが付く。

利己的な貪欲さや怒り・攻撃心などといった悩み苦しみの元になるモノ=古いプログラムを使わない=「放っておく」ことで、古いプログラムが自然に消えていく。つまり悪い心のクセは放っておかれ、新しい「無限の三つ巴の基本的プログラム」によって日常での善い心のクセが付く、そういった訓練になっているんですね・・余計なモノは放っておくんです

つまり、こういった訓練によって意識の筋肉が鍛えられながら・・ご案内の『無限・空の哲学、慈悲・愛のエネルギー、意識』の“知恵の三つ巴”による非・再プログラミングが自然になされて定着し、しだいに日常の中で「観照の作法」が身に付くようになっていく・・

そうこうして、しばらく回数をこなしていくうちに集中力もついて、体の感覚もうまくコントロールできてくるようになり、また雑念の内容も洞察出来て雑念も収まりやすくなってくると、そのうち意識だけが際立った状態になります。

云わば、自分が意識そのものになっているような感じですね。つまり、余計なモノ・雑念を放っておいて更に放っておいて、雑思考や悪感情・欲望(余計な貪欲と禁欲)にまみれた古いプログラム・刷り込みや色んな雑念に一切邪魔されない心の状態、世間で云う処の・・いわゆる‟無”になってしまうんですね・・

そうなると、この訓練も面白くなるんですね。集中力も充分付いてますから『意識というのは、こういったモノなんだぁ・・』といった実感を味わうと共に、仏教でいう処の「貪・瞋・痴」が隠れてしまって出番が無い・・心が落ち着いた“よろこび”や“静けさ”をもたらす、いわゆる三昧・サマディーですね

その“無”による‟静寂”さや沈黙の快楽、幸福感・・これも、その穏やかさのなかで脳内に快楽物質が出ていたり、単に脳波がそういった状態になっているだけですから・・その状況のなかで心と体に起きている現象を感じながらも、そういったポイントもよく観てみる。

・・その実感は、ヒト夫々感じ方が違うので、ここで自分が感じたままの実感を『静寂・・』『優しさ・・』『無・・』・・etc・・などと黙語して、それも観察するだけにして放っておくんですよ・・。

なるほど、“無”とはこんな感じなんだなぁ・・と、こういった状況での“反応しない”快楽や静寂・穏やかな感情や優しい気持ち等々は、「無の瞑想」がうまく進んでいる時の心と体の現象なんだ・・と、クールに観る。

本来この無の瞑想の趣旨は「むやみに反応しないこと=一時の心の断食」ですからね・・官能瞑想の他のステージで行う瞑想とは違って、快楽や三昧・サマディーに単に浸るためのモノでは無いですからね。

その時、余計な思考や雑念が隠れて“無”の状態になっているだけのことですからね。そこに執着しないで、あたかもあらゆる現象に対して“無限の眼”で観ているかのごとく・・ハイレベルの意識で客観的に観る、クールに放っておく・・というのがポイント。

“無も無限の一部”と観る。・・すべては方便なんだ・・変わりゆく『無限の“チリ”とエネルギーの交換現象なんだ・・』といったようにクールに、無限に向けた意識で観てみる。

そこで、はじめて‟無限意識”の入り口に入って色んな現象を‟ありのまま”に観れるようになってきている・・ということにもなるわけですよ。なぜなら、例の『三つ巴』ですね・・無限の哲学(すべては無限の“チリ”)・空の知恵が新プログラムとして、すでに身に付いていますからね・・

それは最も大切な無限の慈悲・愛のエネルギーが捨=見守りの心境にもなり・・意識のレベルが限りなく無限に向かって上がってきて、慈悲・愛のエネルギーと(無限)意識がうまくコラボして・・非・再プログラミングがうまくいっている証拠なんですよ。

そういったわけで・・まぁエロヒムが言うように、人間は自ら慈悲・愛のエネルギーと、高いレベルの意識=“無限意識”を使って自己プログラミングが出来る、云わば究極の生物コンピューターとして創られているわけですから・・

まずは余計な欲望・感情・思考を交えずクールに意識主導で(笑)、エロヒムの教えに沿ってこの訓練をすればイイんですよ。

すべての現象は、無限の“チリ”が絶え間なく生滅し変化しているだけ・・無限・空のなかで起きているだけのことですから・・エゴだとか無だとか、そこに特別な価値を付けないで平等に観る・・

すべては無限にアプローチしている方便として観る・・あらゆる現象を『無限意識』で観る。

大まかに言うと、「無の瞑想」の全体的なイメージとしては、まぁこんな感じですかねぇ・・

おさらいをすると・・ご案内の『官能瞑想のシステム』に沿って言いますと、この訓練はお約束の『知恵の三つ巴』に照らし合わせて、『快楽原則』に沿った遺伝子レベルの観察をしながら・・仏教で云う処の三毒に染まった古いプログラムの意識的な入れ替え・棚卸し=非プログラミングによって始まるんですね。

つまり、基本的な瞑想の実践とエロヒムが教える『無限の哲学・慈悲と愛のエネルギー・意識』この『知恵の三つ巴』のコラボによって更に深く無限を知り、『無の瞑想』によってそれらを意識的に再プログラミングしながら意識がどんどんと成長して、意識→気付き→客観視→観察→洞察・・こういった意識の道具を使いかたが上達していくわけです。

そういった『官能瞑想のシステム』のノウハウを基本にして、従来の仏教的技法の善い処も応用しながらも・・この意識に特化した訓練の成果が、日常のなかで大いに役立てられていくといったアンバイです・・

そうすると『観照の作法』が身についてきて、いざという時にでもパニクること無く、日常でも反応ではなく・・無限の哲学・無限の慈悲愛とコラボしている‟意識”を主導にした落ち着いた行動と、すべての“チリ”がつながった・・いわゆる無限と調和した・・優しい気持ちで居る事ができるようになりますからね。

仏教徒の方々も、まず基本中の基本は『自分は無限の物質“チリ”とエネルギー』なんだ・・という事を知って、それを十分理解することなんですね。

そのあとで、官能瞑想・無の瞑想などによって無限との結びつきを実感しながら・・知恵の三つ巴={無限の哲学/空の知恵・慈悲/愛のエネルギー・意識}の訓練によって、「観照の作法」を身に付けていく・・ここが一番の大切なポイントなんですよ・・

そして、その状況に合わせて、無限意識のカメラレンズを無限小から無限大にズームイン・ズームアウトしながら、意識主導での快楽を色々と楽しみながら・・しかも自由で平和な心、慈悲・愛のエネルギーに満たされながら・・優しい気持ちで居られるように自然になっていくものなんですね。

そういったわけで、繰り返しになりますが・・ここでの訓練のまず最初は、心の中から出て来るモノと体に触れるモノはすべて黙語で意識化するだけ、『そして放っておく=非プログラミング』・・。要らないモノ(プログラム)は捨てられ、残るべきモノは自然に残るのでね・・

ですから“わたし”、つまり心と体の現象はまずは遺伝子レベルのシステムだと思って観ていく・・そして、古いプログラム・雑念に対していちいち善いとか悪いとか勝手に古い観念・価値観などで判断せず・反応せず・連想せず・否定せずにストップ!

・・あたかも無限の眼から観るように、大らかな気持ちで『“捨”の心で、見守りながらも‟放っておく・・』ことが大切な二つ目のポイントになります。

このようなプロセスの流れのなかで、意識の感覚と実感を交えて、段々と意識の筋肉も強くなり、この反応しないことの‟良さ”=何もしない=放っておくこの訓練によって・・日常でもあらゆる現象を無限意識で観られるようになっていくんですね。

そしてなによりも、これは非・再プログラミングにおける脳ミソの回路のデフラグ、そして心の洗濯(心の悪いクセを治す)あるいは断食=薬やメスを使わない自然の手術、つまり『心の断食』をしていることにもなるわけですからね。・・脳ミソの機能も、心の健康のほうも改善されますし・・

とにかく「食の断食」後と同じように「五感の感度アップ」になるので、快楽・官能の質や無限の感じ方も大いに向上すると思いますよ。

Teaさんへ・・この無の瞑想は『官能瞑想』の中での、非・再プログラミングのステージで行う訓練の一環であって・・五感の質と官能を高めて、「無限と調和」して暮らしていくために行なう一つの技法といえるものです。

ただし何度も言うように、この「無になる訓練」はあくまで無限小から無限大の中にある無限の快楽を大いに味わうための、一時の禁欲「心の断食」であって・・「無=反応しない=断食」が最終目的ではないですからね・・

エロヒムが云うように、断食によって心の健康を取り戻すこと・・それは人生を大いに楽しむために、年中休み無く開かれている『官能の庭園』を少しのあいだ臨時休園するようなものですから・・

禁欲好きの修行僧のよう“無”に執着して、そこだけにのめり込んで本末転倒にならないようにしてくださいよ(笑)・・無は無限の一部・・方便にすぎないモノですからね。

・・まぁ、色々と「無の瞑想効果」といったモノが発揮され良い結果が出ると思います。『官能瞑想』の合間に無理しないで、気長にやってみてください。。。

ここで一句

三昧も 無も我も超えて 空と観る