仏陀の悟り

もう一昔前になりますが、『般若心経』を解説していた時に、どうしてもひとつ気になる事がありまして、それは仏陀の“悟り”というものだったわけです。

と言いますのも、ご案内のように『般若心経』のテーマというのは“悟り”なのであって、本当の「悟りの境地」とは一体何なのかを知らずに『般若心経』を語ることはできないのではないかと思ったわけです。

つまり仏教の起源というのは、そもそもお釈迦さんの得た“悟り”が始まりだといわれているわけでして、まぁそのお釈迦さんの伝記や古い仏典などにも載っているように、彼の得た悟りについては『わたしはアムリタ(パーリ語でアマータ)・不死を得た・・・』という表現をしているわけですよ。

ちなみに今の仏教学で仏陀の悟りを表わすものとしては、このアムリタを使った表現が一番古いものであるというのが定説になっているわけです。

そこで、なぜ彼は『不死を得た・・』などと言ったのか、悟りというものと不死とのつながりがいまひとつ理解できないでいたわけです。つまり、アムリタ=不死といったフレーズに引っかかっていたわけですよ。

しかしそんな折に、仏陀が「エロヒムの不死の惑星」という処で現在も生きている、それも生身の体で生きているというとんでもない事実を『エロヒムのメッセージ』で知ったわけなんです・・

ちょうどその頃、1990年代のおわりごろだったと思うのですが、イギリスでドリーという名前のクローン羊が産まれたといったニュースがテレビや他の報道で流れたんですね。

ご案内のように、このニュースは当時話題になりまして、「遺伝子の組み換え」とか「再生医療」といった処に世間の目が向けられはじめたのもその頃ではなかったかと思います。

まぁそういったクローニング事件があって、どこか自分のなかでピン!とくるものがあったんでしょうね。そこでこのクローンといったフレーズがヒントになって、仏陀が今も生きている!

しかも、「生身の体で生きている」という処につながっていくわけです。まぁ、ここであんばいよく、悟りの内容=不死・クローンとこの謎のトライアングルがうまく自分のなかで繋がってしまったというわけですね。

つまり、こういったわけなんですね、まず仏陀はエロヒムの不死の惑星に連れていかれる。そしてそこで‟四十九日”のあいだ居て、彼らの高度に文明が発達した社会を知る事になる。

ですから、そのあいだというのは仏伝にあるように菩提樹の下で他の修行者たちと瞑想していたわけではないんですね。仲間の修行者たちが木の下で頑張って座っているあいだ、当の仏陀は・・と言いますと、地球から1光年離れている他の惑星に居たというわけです。

そしてそこで、エロヒムから彼自身の出生の秘密や、地球でこれから自分が果たす役割を告げられたり、そのために必要な科学的奥義や瞑想技法なども色々と学んだことでしょう。そして、その時代の預言者としての使命を果たした後に、まぁお役目ご苦労さまでした・・ということで、「死後の再生」といった約束がなされる・・

まぁそういった筋書きでもって話は進んでいくわけです。それから色々とあった末に、仏陀はエロヒムの生命科学のテクノロジーによって再生され、今も尚3000年の長きにわたって生きながらえているということになる・・こういったような話の流れになるのではないでしょうか。

しかし厳密にいうと、エロヒムから与えられた使命を無事に果たした後に、彼らの惑星で再生されることになるわけですからね。まぁ、その時点では仏陀はまだ再生される前ですから、正確に言うなら「不死を得た・・」というよりも「不死の“権利”を得た・・」といったほうが言い方としては適当ではないかと思うわけです(笑)。

しかし、ご案内のように不死というのは、古今東西誰もが追い求めてきた憧れですし、地球の現在の生命科学でも果しえぬ究極のテクノロジーですからね。それでも昨今では、肝臓病・パーキンソン病などを治療すべく、

IPS細胞を使った再生医療も数年で実用化されるといった処まできているようですから、まぁ不死の秘密が解き明かされるというのはそんなに遠い話ではないような気がしますけどね。

とにかく、そういった夢のような不死を約束されたわけですから、3000年くらい昔に生きていた当時の仏陀にしてみるとトンデモナイ話だと思いますよ。ですから、まず宇宙から地球へ戻ってきて、

そこで感極まり思わず発してしまったのかどうかは分かりませんが、帰還後の彼の第一声が『わたしは不死を得た…』であったというのであるなら、まぁそれも納得できる話ではないかとは思いますねぇ。

とにかく「仏陀の悟り」というのは、今まで信じられてきたように仏陀自身が気の遠くなるような輪廻のなかで得た特別な知恵であって、凡人の我々には計り知れない深淵な心の境地なのであろう・・と、誰もがそのように信じてきたわけです。

しかし仏陀が彼の悟りを得る場面において、このアムリタ・不死といったフレーズを使った背景にあるものというのは、実は彼の伝記にあるように厳しい修行や断食をして輪廻から脱して・・とか、菩提樹の下で四十九日のあいだ瞑想して悟りを得て・・とか、そういった個人レベルでの知恵の物語といったものではないわけです。

この知恵の物語の筋書きというのは、遺伝子工学とか分子生物学によって得る「不死」が大きなテーマになっているわけですからね・・まぁこういったわけで、仏陀の一番大切な悟りの場面で、なぜこの不死・アムリタというフレーズが使われたのだろうかといったお話をしているわけですが、

仏陀が言いたかった「本当の‟悟りの境地”の意味」というのは“不死”に代表される高度な科学テクノロジーが人間に奉仕する「科学の黄金文明」のこと・・。

つまり耳が聞こえない者が聞こえるようになり、目の見えない者が見えるようになる、そういった科学の恩恵によってすべての人間が幸福に生きているそういった世界、「エロヒムの不死の惑星」の社会全体のことを言っているニュアンスがあるわけなんですね。何度も言いますが、これは単なる個人レベルでの、人間ひとりの狭い精神世界の話ではないということです。

エロヒムが我々に教える“知恵”というものは個人の場所に留まるべき性質のものではないんですね。それは“無限”に関わるモノなんですね。それが素晴らしいものであるなら、なおさらのこと社会あるいは文明といった広い世界に及ぶものなんです。

ましてや、個人のモノとか誰かに所有されるモノではないんですね。さらにその知恵=知恵の本質といったものを言うならば、どのような知恵といったものであっても、例えば日常で役に立つおばあちゃんの知恵のようなものから、再生医療やクローニングの技術などの高度な知恵に至るまで色々あるわけです。

そういった知恵は仏教でいう四苦八苦といったあらゆる“苦”をなくすために多いに使われてきたし、またこれからも使われていく。そして、それらのモノはすべて時空を超えて、無限の過去からすでにあったし、これから先も無限にあり続けるということです。

知恵と無限との関係はこういったものですから、エロヒムから言わせると、彼らはすでに我々より科学レベルが例え25000年も進んだ処に居るとしても、彼ら自身はその無限の過去からあった知恵を再び見つけて、それを使わせてもらっているにすぎないと云うわけです。

このように、彼らは本当の意味での知恵=科学の無限性・普遍性といったものをとても謙虚に語っているわけですね。そこで、この無限の循環のことを、私はあえて『空・くう』という言葉で定義したわけなんですが、エロヒムからのメッセージで最も重要なのが、この“空”というものなんですね。

ご案内のように、仏教においても古くからこの“空”に特別なスポットを当てております。例えば、こういった事も云っています。『“空”こそが真実であって、他はすべて方便・ウパーヤ(限りなく真実に近づく)にすぎない・・』と。

もちろんこれは、“空”に対しては、最高の方便である“知恵”によってアプローチしていくというわけです。つまり、この“空”こそが真実であって、そこにアプローチしていく最大の“方便”が知恵であって、エロヒムはこの知恵のことを科学と云っています。

ちなみに、この“空”の文字が無限でも良いわけです。空すなわち無限ということですからね。空というのは、単に「時間と空間が無限・・」という処に、ご案内のように生命の創造=「知恵の無限性」といったものが加味されるだけですので・・。

例えば、今誰かが見つけた知恵は遠い昔にどこかで誰かが見つけていて、いつか将来にはどこかの惑星で誰かが再びそれを見つけて、またその場所のその時間に生きている人間たちの幸福のために使われる。

同じように、例えばエロヒムにも彼らを創造し彼らにその知恵を渡した先人がいるわけです。そしてその知恵を持った先人からそれがエロヒムに伝授され、それからその知恵は今度は地球人に渡され、そしていつかは未来の地球人もどこかの惑星に赴いてそこに住む人間たちにその知恵を授けることになるわけです。

知恵、あるいはその知恵によって科学的に生命が創造されること・・それが無限の過去から永遠にくり返されてきたし、またその知恵の伝授はこれから先も無限の未来に向けて永遠に繰り返されていくといったわけです。再び言いますと、その時空をこえた永遠の循環性、無限性を“空・くう”というわけです。

ですから、「空それは無限」といった性格上、本来は個人レベルでは所有することもできるものでもない“無所有”といったものですから、知恵そのものは、誰彼のモノというわけではなくて、云わば無限からの借り物です。

借り物ですので、無限から与えられるモノはその無限の一部である我々が、所有せずに皆で共有し分かち合うのが当然だということですね。

そういったことで、仏陀の悟りについては当時彼が不死・アムリタといったフレーズでそれを表現した意味合いを再び云いますと、本当の『悟りの境地』というのは仏陀個人が長い修行で得られた心境や涅槃といったものではなくて、高度な科学によって不死を実現した世界、そのような文明。そのお手本はエロヒムの社会であること。

そして彼が得たといわれている『悟りの知恵』といったものは、彼がその場所に四十九日のあいだ居て、そこでエロヒムから伝授された宇宙と人間についての様々な知恵=科学にまつわるものであったであろうということなんですね。

これらについては、ご案内のように仏典には『・・四十九日のあいだ‟悟りの悦び”を味わった(菩提樹の下で瞑想して)・・』と記述されてはいるのですが・・まぁ少し長くなりましたが、まずはこういった処でしょうか・・・。

ここで一句

借り物は みんなで使う 空のなか