八正道の⑦「正念・しょうねん」=意識・気づき・観察、⑧「正定・しょうじょう」=集中ということで、「無の瞑想」でのポイントは“反応しない”といったお話をしました。
『官能瞑想』の非プログラミングを行う時にする「無の瞑想」なんですが、その訓練法についてはあまり詳しい説明といったモノがありませんが、参考の為にこの「無の瞑想」の方法について少しご案内したいと思います。
例えば、お寺で座禅をしている場面があってそこで『無になる・・』といったフレーズをよく聞くんですね。では、この“無”というのは一体どういった状態をいうのでしょうかね?
まぁ、無念無想といったような表現でも使うわけなんですが、フツーに考えると「雑念が無い状態、石のように感情も無く何も考えていない状態・・」そういったイメージではないかと思うんですね。
まぁそういったことなんですが、まるっきりの“無”というわけではないんですね。我々の頭のなかはいつも色んな考えや思いでグルグルまわっているでしょ。もちろん無意識の状態で勝手にまわっています。
そういった状態というのは、云わば信号機の無い交差点をたくさんの車が右往左往して収拾がつかない状態、それと似たような状態になっているということなんですよ。
ですから簡単にいいますと、そういった交差点に信号機を付けて交通整理をしなくてはいけなくなる。片方に青信号を出して、もう片方には赤信号を出してストップさせたりするわけです。
その信号機の役割をはたすのが「意識」といった道具なんですね。その意識という道具を集中力をもって・・観察力を大いに使って・・頭のなかの雑然と動き回っている物事を整理整頓しましょうということになるわけです。
パソコンの機能をうまく働かせるための処理、デフラグみたいなものかもしれませんね。まぁ、そういったわけですから、「頭の中が“無”の状態・・」といった表現をしたとしても、これはひとつの方便ですからね。
実際は「意識」という道具を使っているわけですから、「無になる・・」というよりも、意識が活躍している状態といったほうが適切な表現なわけです。
決して、何も無いの“無”ではないんですね。例えば、我々の日常では『○○しよう、○○しなくてはいけない・・』と欲望といったモノが出てきて、『うまくいった、失敗した・・うれしい・・悲しい・・』といった具合に、その欲望には必ず感情が付いてきますし、
そこにまた『こうしたほうが良かった、ああしたほうがイイ・・』と思考が芋ずる式に反応して、さらにまたそれに別の思考が反応して、その考えたモノに更に欲望が重なってきて・・etc・・と、キリがないんですね。
とにかく四六時中、頭の中は欲望・感情・思考のオンパレード・反応しっぱなし状態ですから、そういった反応をいったん意識的にストップしてクールダウンする・・ものごとを整理整頓、客観的に観る訓練。まぁ、云わば「心の断食」みたいなものですね・・それが「無の瞑想」のひとつのポイントになるわけです。
ふたつめのポイントとしては、この訓練をする場合のスタイル・姿勢はどうするのかといった問題ですね。それに関しては、まぁ、体の痛みや窮屈で苦しくないアンバイであるなら、それで集中力が保たれているなら結果オーライだと思うんですね。どのような形・姿勢・ポーズ・やり方であろうが、全然かまわないと思いますよ。
例えば禅なんかでも、座ってする座禅の姿勢がオーソドックスな形だと思われていますが、すわってやるから単に座禅というだけですからね。立ったままする立禅、歩いておこなう歩行禅、寝たままする寝(座)禅とホントは色々あるわけで、スタイルもTPOで夫々変わってきますから。
日本の禅寺でやっているように、結跏趺坐スタイルの両足を組んでやらなくても、背筋を伸ばして普通に楽にすわる、あるいは『官能瞑想』の基本姿勢のように横になって寝た状態(寝座禅)でやっても構わないと思いますよ。
本人のやり易い無理のないスタイル・やり方でイイわけです。ちなみに、私の場合ですと腰と膝が故障していますのでフツーは寝座禅か椅子に座った状態が基本でやっていますよ。車中の場合は、椅子に背中と頭をつけて座った楽な姿勢でやっていますね。
足は延ばしたままで、手はあおむけの腹のあたりに両手の指を組んで乗せています。このスタイルですと、床か椅子があればどこの場所でもできますからね。寝座禅のメリットは瞑想時間が長くなっても、足腰の痛みは感じないですし体に負担がかからないということですね。
たとえ2,3時間続けてやったとしてもまったく問題はないです。体に痛みや負担が少なければ、それだけ意識が分散しないで集中できるでしょ。ですから、障害をお持ちの方や初心者の方にでも無理なくできますので寝座禅はおすすめだと思いますね。
そういったわけで、TPOに合わせて自分の状態にあったやり方でできるわけで、スタイル・姿勢・形は別にコレでなくてはダメだといった決まったモノは無いということですね。
あと三つめのポイントは集中のやり方と意識の持っていき方ですが・・。これは、一言でいうとトライ&エラー、『やってみる・・習うより慣れろ・・』しかないんですね。
まぁ、そんなに難しいモノではないですからね。数回でコツをつかむ達人もいるみたいですが、やはり基本は何回も何回も繰り返しやってみて、難しく考えないで自分の感覚でおぼえていくしかないんですね。
例えば、ひとつのサンプルを言いますと・・その前に、まず体が調子悪かったり、考え事や悩み事があったりする時は無理してやらない事です。日をあらためて、ある程度体調が整って、心の波がおさまって落ち着いてきたらやってみてください。
この「無の瞑想」は心身の病気治療のためのモノでも苦行でもありませんし、義務感でもってやるモノでもないですからね。
そこで、自分の態勢を整えたら軽く両手の指を組み、目をつむって深呼吸を数回して、あとは普通の呼吸にもどします。そこからの大まかな流れを云うと、まず体のどこか一点に意識をもっていくわけですね。
息がふくらむ腹でも息の通る鼻の先でもいいですから、そこに集中する感じですね。自分の集中しやすい場所を見つける。そして体のその一点に意識を集中させると、体の他の部分に意識がいかなくなってくる。
たとえば、お腹に集中して息をする、膨らんだら『膨らむ・・膨らむ』、息を吐いて縮んだら言葉を出さずに『縮む・・縮む』と黙語で、腹の膨らむ感覚や縮む様子に意識を集中していく。同じように、鼻ならそこに集中して息を吸って黙語(心のなかで言う)で『吸います・・』、息を吐いて黙語で『吐きます・・』の繰り返しですね。
それと同時に頭の中の考え事などの、いわゆる欲望・感情・思考絡みの色んな「雑念」が出てくるわけです。雑念が出てくるというのは、もうデフラグが始まっているということですからね。
しかし、雑念が出てきてもイイんですよ。『雑念だ。。。』とか『妄想。。。』といったアンバイで放っておけばいいんです・・ポイントは雑念が出たら出たで、その雑念の内容に見合った“黙語=無言の言葉”でもって意識をそこに当てるわけです。
そして、収まったら再び最初に集中していたお腹とか鼻に意識を戻して・・心の中でお腹の場合は『膨らむ・・縮む・・』鼻の場合は『吸います・・吐きます・・』と、この繰り返しですね。『膨らむ・・』途中で何かを思い出したら→『思い出した・・』→『縮む・・』→『膨らむ・・』と、又お腹の膨らむ・縮むに戻る・・こんな感じです。色んな雑念が繰り返し出ますからね。
脳ミソが意識下でデフラグの作業をやっているわけですから、整理される古いプログラムだろうが何だろうが雑念として出てきて当たり前なんですね。ですから、デフラグの方は脳ミソに任せておいて雑念や妄想が浮かんで来たら、同じように『雑念。。。』と、そういったモノに対して意識のなかで“無言の言葉(黙語)”を当てる。
その言葉はできるだけ簡潔にシンプルな単語にする。何かの音が気になったら「車の走る音だ・・」ではなくて、単に『音!』あるいは『聞こえた』それだけ(‟音”は、耳で直接聞こえた‟ありのまま”の現象なのでOK・・しかし‟車の音・・の”車は直接見たわけではなく、あくまで主観・憶測・連想だから=これは思考の部類なのでNG)。思考の類は一切使わないこと・・
『あぁ、昨日見たテレビの場面・・』といった長めのフレーズもNG、『雑念!』『妄想!』といった感じでいいわけで・・言葉も思考の部類なので、言葉=黙語はなるべく少なめに・・。そしてポイントは、雑念が出れば連想せず思考せず、分析せず・・それを追いかけないで、放っておく・・広い心でただ淡々と、クールに見送るだけにする・・使うのは意識だけ。。。
それと例えば座禅スタイルでやっていて、足の痛みが出てきた場合にも自我感を出して「痛いなぁもう~=わたしが痛い」という感じではなくて、主語(主観)=“わたし”感を外して・・他人事のようにただクールに『痛み!』と、痛みを客観的に観る。どこかが痒くなったら、痒みの感覚に即反応して掻かないで、これも感覚だけを客観的に観て、‟わたし”を外して『かゆみ!』と無言の言葉をあてる・・。
そして、痒みが我慢できなくなったら、無理をしないで『掻く!』と黙語で痒い場所をかいて・・嫌な感覚が消えて気持ちが良いといった感覚があれば、それも『快楽・・』と黙語する。ここで苦が消えて快楽になる心と体の自然なシステムですから、この苦と楽の心と体の関係性もよく観察して放っておく。
収まったらまた何もなかったように『戻る(黙語)・・』と、元に戻ってまたお腹の『膨らむ・縮む・・』に戻っていくわけです。ここでの観察で解かるのは、痛みは不快で痒みも不快だと実感した後に足を崩して気持ちが良くなったのも、痒い処を掻いて気持ちが良くなったのも、その感覚と感情との関係は心と体の‟ありのまま”の『快楽原則の遺伝子レベルのシステム』だということです。
そして、足の痛みも我慢できなくなったら『(足を)組みなおす・・』と黙語して組み直す。ここで気持ちよかったら『快楽・・』と黙語する。雑念とか痛み・痒みといった感覚も、これも“ありのまま”の実感で・・足を組み換えると苦が消えて快楽になるわけです。
これらの現象は『快楽原則のシステム』によって起きる心と体の単なる自然現象であって、痛みを感じると脳内からエンドルフィンがちゃんと出てくるシステムになっているわけです。それは遺伝子レベルでの「苦を嫌い快楽を好む」事で成り立っているエロヒムの描いた設計図どおりのプログラムだと観察するわけです。
ですから、この感覚を嫌わないで広い心で、ただ『痛み・・』あるいは『痒み・・』と客観的に観て、クールに受け止めて黙語を充てる。もし『嫌だ・・』といった感情が出てきたら、これもただ『嫌だと思った・・』と黙語をあてて放っておく・・。
掻くときにでも、他人の足が痒くてそこを掻いているの手伝っているといった具合に、あたかも感情も思考も無い「無限の眼で観る」かのように観てみる。・・そして、あたかも無限に意識があってその無限の意識で観察するかのように・・‟わたし”を外して、客観的に心と体に起きる現象を観るわけです。
このように、遺伝子レベルでの心と体のプログラムである「痛みや痒みの感覚」そして「嫌だとか、気持ちがイイ・・といった感情」が次々とやって来ては消えて、消えてはすぐにまた次の感覚や感情がやって来る。苦→楽→苦でも楽でもない→苦→楽・・・そういった変化を実感しながら、その変化の流れも観察してみる。
そうすることで、物事は何でも変わっていくものだと、現象はすべて変化するものだと解かる。この遺伝子レベルでの観察によって、物事や現象はすべては変化する・・この変化の速さに‟わたし”の居場所すら無い、つまりこれが仏教で云う処の『諸行無常』といったものなんだなぁ~と解るわけです。
こういったような、‟わたし”を外した繰り返し実感した心と体の感覚・感情の変化を通しての観察によって、“わたし”に関わるものを放っておいて更に放っておいて・・‟わたし”と言う虚像は自分勝手に作り上げたモノ・妄想なんだと・・
それゆえ、‟わたし・我”とは単なる概念でホントは無い『無我』なんだという仏教の解釈が、こういった観察によって解かったりもするわけなんですね。
つまり、その‟わたし”を動かしているのは何なのか、そしてその自我感はどこから来るのかというと、神でも霊魂でも無い・・他でもない実は、心と体の設計図=遺伝子/DNAのシステム・プログラムだと・・“わたし”=プログラム=「無限の一部」なんだと、今の時代であるからこそ解かるわけなんですよ。ここの観察と理解が一番大切なポイントになるんですね。
つまり、五感も喜怒哀楽や好き嫌いの感情も善い悪いの思考も、そして‟わたし”という身を守って生き延びるための生存欲も・・遺伝子レベルの防衛システムである免疫機能や自我感も含めて・・etc・・
‟わたし”の正体とは・・エロヒムが心と体の機能をプログラミングした設計図、遺伝子/DNAレベルでの単なるシステムの一部、プログラムなんだと・・
まぁ、そのように自分の心と体の現象を観察することで・・そういった遺伝子・DNAの機能は全ての人間に備わっている普遍的なものだというように・・よりディープな洞察ができるといったわけなんですね。
そもそも、エロヒムが描いた「苦と楽」を基調とした『快楽原則のシステム』のコンセプトというのは、五感をフルに使って官能的に人生を大いに楽しむようにと、彼らの遺伝子・設計図を基にして我々の遺伝子・設計図にその機能をプログラミングしたモノですからね。
そのコンセプトはあくまでも楽を感じるための苦であって、楽が主役で苦は脇役なわけです・・もちろん、そのためには『苦→知恵→楽」といったように、苦を無くしていくための知恵が出てくるように元々プログラミングされているその知恵を使わなくてはいけないようになっているわけですよ・・
ちなみに、自己防衛システムといえば、日常の中でのちょっとした瞬間をとらえるて観察したり、洞察したりは出来るんですね。例えば小さな虫が目に入ろうする(苦)と、その外敵が入らないように無意識に瞼が閉じる(知恵)でしょ。
また、火事が‟わたし”の真近まで迫ってきたらそこから逃げろと警報ブザーを発するし(笑)・・間違って海に落ちたら泳げない人でも、意識するしないに関係なく自然に手足をバタつかせて溺れて死なないようにするんですね。
こういったような意識しなくても自分=‟わたし”を守るための、ゴミや虫が入らないようにまぶたを閉じたり溺れないように手足をバタつかせたりするそういった遺伝子レベルでの目には見えない苦を無くするための知恵・・まぁシステム=無意識に発動する知恵としてプログラミングされているんですね。
ウィルスなどの外敵から‟わたし”を守っている免疫システムなんかは、その知恵の最たるものモノではないですか。
そういったわけですから、気持ちがよかったら『‟わたし”が気持ちがいい・・』ではなくて、‟わたし”を外して『快楽・・』それだけ・・追っかけない、これも放っておく。快楽も幸福感さえも実感はすべて、主観を外して客観的に観る。意識化するだけにしておく・・
「痛み・痒みは嫌だ・・」と、そういった苦の感覚と感情が自然に起きるのも、足を掻いたり足を組みなおすことで苦が楽になるというのも・・このような心と体の現象の観察によって知るわけです・・‟わたし”とは遺伝子レベルでの苦を避け知恵を使って楽に行く『快楽原則のシステム』に則した、‟ありのまま”のプログラムですからね。
例えば、エロヒムの科学レベルの知恵があれば、その‟わたし”という設計図(遺伝子/DNA)を基にして、その‟わたし”のコピーがクローニング技術によって、いくらでも作られるわけでしょ。ですから、そんな単なる‟わたし/DNA”=「無限の一部」=普遍的な自然現象には構わないで放っておく・・そういった「無限レベル」からの客観的な視点で観てみる・・
これらの‟わたし”の現象の、例えば足が痛くて苦を感じる→そこで苦は嫌だから足を組みなおすという知恵を使う→そうすると苦が一時消えて楽になる・・そういった苦→知恵→楽の反応というモノは、これは『快楽原則のシステム』なんだと・・知恵とは快楽を求め、喜びをより多く感じるためのモノなんだと、よく観察して観るんですね。
このシステムは『痛み・苦に対しては知恵を使いなさい・・』といったように、痛み・苦・不快感は警告ブザーみたいなモノで・・それはエロヒムが作った遺伝子・DNA=設計図どおりの「苦を感じる→知恵を使う→楽になる」、これもまた普遍的プログラムに従った自然な反応・システムの現象なわけですからね・・。
それは単なるプログラムの一つとして観察するだけにして・・そのことにいちいち反応して、思考や感情を使って追いかけるのはNG・・すべて遺伝子のシステム機能に任せて放っておくんですね。
嫌だと思ったら『嫌悪・・』と黙語でストップ・・かゆみが我慢できなくて掻きたいのなら『掻く・・』と 黙語でストップ、そして掻いて気持ちよかったなら『快楽・・』でストップと、その実感だけを受け取って、クールに観察して観るだけ・・。
出てくる雑念や感覚もすべての現象を、平等に客観的にありのままに観て、やりすごす放っておくことですね・・。快楽も苦・痛みもなぜ出てくるだろうかとか、この苦や痛みを嫌と思うのは自我ではないかとか・・etc・・そういったような余計な思考や詮索・判断は一切しないこと。
使うのは観察したり、気付いたり、洞察したり・・そういった「意識」という道具だけですからね。心の中に隠れているモノ・都合の悪いモノが出てきても否定しない、抑圧しない。まずは、一旦それらをすべて受け入れ意識化するだけにする、そして放っておく・・
この意識化が古い価値観・固定観念・迷信そういったモノをふるいにかけて、古いプログラム(古い‟わたし”)が新しいプログラム(新しい‟わたし”)に入れ替わる、つまり非・再プログラミングをすることにつながっているわけですからね。
そして、ここでのポイントは精神分析のように、意識化したモノを自己分析したり原因を探したりしないことです。分析も解釈もそういった思考活動はNG。
それらは既存の固定観念・古いプログラムを使っているだけですから、ここでは起きることはすべて見送るだけにする。自然にデフラグされ、脳ミソにちゃんと「知恵の三つ巴」カラーの新プログラムが再プログラミングされていくのでね・・。
そのうちに雑念も痛みも段々収まってきます・・。しかし、慣れてきても雑念は出ますからね。そのうち、広い見守りの心(無限の慈悲・愛のエネルギー)で・・『放っておけ。。。』といった一つの“無言の言葉”だけでもって、すべての雑念等を片付けれるようにもなります。
この“放っておけ”といった無言のフレーズが使われていくうちに、このフレーズが脳ミソに再プログラミングされて定着していって・・これが日常の中でも善い方向=善いクセに反映されていくんですね。
色んな場面で思考・感情・欲望のまみれた余計な主観=悪いクセを外しての客観視・・物事を‟ありのまま”に観る善いクセが付く、利己的な貪欲さや怒り・攻撃心などといった悩み苦しみ・煩悩の元になるモノを「放っておく」といった善いクセが付く・・余計なモノは放っておくんです
つまりこういった訓練によって、ご案内の『無限・空の哲学、慈悲・愛のエネルギー、意識』の三つ巴による非・再プログラミングが自然になされて定着し、しだいに日常の中で「観照の作法」が身に付くようになっていく・・
そうこうして、しばらく回数をこなしていくうちに集中力もついて、体の感覚もうまくコントロールできてくるようになり、また雑念の内容も洞察出来て雑念も収まりやすくなってくると、そのうち意識だけが際立った状態になります。
云わば、自分が意識そのものになっているような感じですね。つまり、放っておいて、放っておいて~更に放っておいて・・しまいに意識以外の余計な思考・感情や欲望まみれの雑念といったモノが居ない状態、いわゆる‟無”になってしまうんですね・・
そうなると、この訓練も面白くなるんですね。『意識というのは、こういったモノなんだぁ・・』といった実感を味わうと共に、仏教でいう処の「貪・瞋・痴」が隠れて自我や執着から自由になったような心境、いわゆる三昧(サマディー)みたいなモノですね・・雑念などに邪魔されず、穏やかな気持ちで移りゆくすべての現象を観る余裕もできてきます。
そこでのポイントは、その‟静寂”さも、‟無”になっている気持ち良さの感覚も、ここではただ『静寂・・』あるいは・・『快楽・・』と黙語して、クールに観察して放っておくんですよ・・ここがポイントですのでね。
こういった穏やかな感情や感覚は、「無の瞑想」がうまく進んでいる時の単なる心と体の現象ですからね。なるほど、こんなもんだ・・と、快楽にも幸福感にも執着しないで淡々と観るだけにして、放っておく。
この無の瞑想はあくまでも意識主導の訓練であって、三昧や無の快楽に浸るためのモノでは無いですからね。そこに止まらず、云うならば意識はそれらを超えて・・無限意識のレベルにいく訓練なわけですからね(笑)・・。
そうしていくうちに観察力・洞察力も付いて来て、‟無”になっている状況に対しても、これもただその時だけの『無・・』といったようにクールに観られるようになってくるんです。
つまり、“無”を単なる一つの現象にすぎない『無・・』と観察する。‟わたし・エゴ”も単なる無限の一部=遺伝子レベルのシステムだと観察・洞察して、放っておいたように・・『“無”も単なる無限の一部・・』といったハイレベルからの意識で観て、放っておく・・
・・『すべての現象を無限の一部と観る』そこではじめて、‟無限意識”の入り口に入って色んな現象を‟ありのまま”に観れるようになってきている・・ということになるわけですよ。
なぜなら、‟わたし”を含め・・『すべての存在は変化し、同じ無限の物質‟チリ”で出来ている』・・という例の三つ巴ですね、無限の哲学・空の知恵がすでに身に付いていますからね・・それは、無限の哲学と無限の意識がうまくコラボして、もちろん無限の慈悲・愛のエネルギーと一緒に、意識のレベルが限りなく無限に向かって上がってきている証拠なんですよ。
・・‟わたし”の自我感だろうが‟無”だろうが、‟サマディー”だろうが“ありのまま”だろうが・・それはその時だけの心・体の実感であって、すべては遺伝子レベルのシステム・機能によるものとして観る・・更にそういった遺伝子の中の無限小のレベルで起きていることは、すべて無限の物質とエネルギー=‟チリ”による現象としてある・・といった深い洞察にもなっていくわけです。
人間の心と体システムは、無限の物質とエネルギーつまり“チリ”で創られて遺伝子によってなりたっているわけです。そして、そのエロヒムによって創られた遺伝子のなかにプログラミングされた色んな欲望や感情そして意識といった機能を使って生きているわけです。
ですから、心と体に起きる自然な現象に対しては何にでも平等に、そこに特別な価値を付けないで・・あたかも無限の眼から観ているがごとく、ハイレベルな意識で観察してみる・・つまり『無限意識』で観るのが、ここでの重要なポイントですからね。あなたは、無限を意識できる無限の“チリ”・・空・くうなんですからね。。。
・・大まかに言うと、「無の瞑想」の全体的なイメージとしては、まぁこんな感じですかねぇ・・
おさらいをすると・・ご案内の『官能瞑想のシステム』に沿って言いますと、この訓練はまずお約束の『知恵の三つ巴』に照らし合わせて、快楽原則に沿った遺伝子レベルの観察をしながら、古いプログラムの意識的な入れ替え・棚卸し=非プログラミングによって始まるんですね。
つまり、基本的な瞑想の実践とエロヒムが教える『無限の哲学・慈悲と愛のエネルギー・意識』この『知恵の三つ巴』のコラボによって更に深く無限を知り、意識的に再プログラミングしながら意識がどんどんと成長して、意識→気付き→客観視→観察→洞察・・こういった意識の道具を使いかたが上達していくわけです。
そういった『官能瞑想のシステム』のノウハウを基本にして、従来の仏教的技法の善い処も応用しながら、この意識に特化した訓練の成果が日常のなかで大いに役立てられていくといったアンバイです・・
そうすると『観照の作法』が身についてきて、いざという時にでもパニクること無く、日常でも「反応ではなく、無限の哲学・無限の愛とコラボしている‟無限意識”を主導にした落ち着いた行動」ができるようになりますからね。
まずは、知恵の三つ巴={無限の哲学/空の知恵・慈悲/愛のエネルギー・意識}の訓練によって、「鑑賞の作法」を身に付けることがいかに大切なのかという事ですよ・・
そして、その状況に合わせて、無限意識のカメラレンズを無限小から無限大にズームイン・ズームアウトしながら、意識主導での快楽を色々と楽しみながら・・しかも自由で平和な心で居られるように自然になっていくものなんですね。
そういったわけで、繰り返しになりますが・・まず最初は、心の中から出て来るモノと体に触れるモノはすべて黙語で意識化するだけ、そして放っておく・・。要らないモノ(プログラム)は捨てられ、残るべきモノは自然に残るのでね・・
ですから“わたし”、つまり心と体の現象はすべて遺伝子レベルのシステムだと思って・・そして、古いプログラム・雑念に対していちいち善いとか悪いとか勝手に判断せず・反応せず・連想せず・否定せずにストップ!・・あたかも無限の眼から観るように、大らかな気持ちで『見守りながらも‟放っておく・・』ことが大切なポイントになります。
このようなプロセスの流れのなかで、意識の感覚と実感を交えて、段々と反応しないことの‟良さ”を実感できるようになるわけで、意識の筋肉もしだいに強くなっていくんですね。
なによりも、非・再プログラミングにおける脳ミソの回路のデフラグ、そして心の洗濯(悪いクセを治す)つまり『心の断食』をしていることにもなるわけですからね。・・脳ミソの機能も、心の健康のほうも改善されますし・・
とにかく「食の断食」後と同じように「五感の感度アップ」になるので、快楽・官能の質や無限の感じ方も大いに向上すると思いますよ。
この無の瞑想は『官能瞑想』の中での、非・再プログラミングのステージで行う訓練の一環であって・・五感の質と官能を高めて、無限と調和して暮らしていくために行なう一つの手段・技法といえるものです。
ただし何度も言うように、この無になる訓練はあくまで一時の「心の断食」であって、エロヒムが云うように・・人生を大いに楽しむために、年中休み無く開かれている『官能の庭園』を少しのあいだ臨時休園するようなものですからね。
禁欲好きの修行僧のように断食・“無”にのめり込んで、本末転倒にならないようにしてくださいよ(笑)「無は無限の一部」にすぎないモノですからね・・この訓練は苦行ではないですしね。
・・まぁ、とにかくコレはやってみなくては実感できませんので、他に色々と「無の瞑想効果」といったモノが発揮され良い結果が出てくると思います。あくまで『官能瞑想』を基本に実践しながら、その合間に無理しないで気長にやってみてください。。。