続 『無の瞑想』のお話

・・非(再)プログラミングというのは、早いハナシ自分の「心の悪いクセをなおす」ということなんですね。

無意識に出てくる‟反応グセ”を直すためには「意識」という道具を使わなくてはいけないものですから、意識を使う訓練から始めなければいけないわけです。今まで使ってこなかった意識の筋肉を使う訓練ですね。

そこで、この意識の筋肉を付ながらしかも集中力も養うことができる訓練法としてエロヒムが薦めているのが『官能瞑想』の中で行う『無の瞑想』なんですね。『無の瞑想』を実践するということで、まず意識することを知る、そして客観的に観ること、観察をしてみること・・。この客観性と観察によって、段々と先の広がり・普遍性が観えてくる・・そして洞察する・・さらに無限性も観えてくるようになる

・・そういった意識的な作業がこの『無の瞑想』の中にたくさんありますので、そういった意識全般の訓練をするということにもなるんです。例えば「反応しない」でストップ!するのも意識を使うわけですし、古いプログラミングなどの雑念に対しても落ち着いてそれを客観的に観ること・・まぁ、そういった遺伝子レベルの観察をする・・

また、出てきた雑念に対しての貪欲さ・悪感情・思考が反応として出ますからね・・まぁ、悪い‟反応グセ”ですよね・・それらも「ありのままのモノとして認める・嫌わないで受け入れること」が大切になる。つまり、無意識(反応)の意識化と慈悲・愛のエネルギーを大いに使うという事。そこで雑念の内容から、現状の心の洞察もできるようになってくる。

それに伴って、体の感覚や心の動きをクールに観察してみることも、また大切な意識の役割なんですね。気持ちが良い・・といった快楽、あるいは痛みやかゆみは嫌だ・・これらはすべてエロヒムによって遺伝子にプログラミングされた反応でもあり、その感覚に対しての‟ありのまま”の感情ですからね。そういったモノをすべて意識化して受け入れること。

そしてその元にあるのは、そもそも‟楽を求め苦を嫌う”遺伝子レベルでの『快楽原則のシステム』があるからなんですね。そういった感覚・感情をしっかり観察して・・気づくこと・客観的に観ること・観察すること・洞察することです。これらはすべて、「意識」といった道具がはたす役割なわけです。

『無の瞑想』を実践しますと、これら意識の道具のすべてをFULLに使いますので、というよりも「意識の道具」しか使いませんので、いわば「意識からはじまり、意識でおわる・・」そういった瞑想のエッセンスがこの『無の瞑想』にすべて盛り込んであると云ってもいいくらいなんですね。

例えば、この訓練をしますと誰でも途中で雑念が出てくるんですね。そこで、やはり初心者が一番気になるのは、雑念が頻繁に出てきて中々“無”になれないといった処ではないでしょうか。

ご案内のように、瞑想中には脳ミソがデフラグを盛んにやってますから色んな雑念が出ますし、体の痛みや痒みが気になって集中できないということも起きるんですね。しばらく放っておくと自然に雑念や痛みが無くなればイイんですが、中々うまくはいかないんですね。

そういった時に使って便利なのが“無言の言葉(黙語)”なんですね。観察瞑想(ヴィッパサナー)の技法のひとつに、初心者には特にやりやすいラベリング=黙語というのがあるんですが、それを応用したものです。

例えば、瞑想中に雑念が出てきた処に、黙語で『雑念!』といったような簡潔で短い単語・言葉・フレーズを使って、意識的にその雑念にあてるわけです。雑念が出てきた原因を探したり分析したりしないで、ただ放っておくんです・・意識化するだけにするわけです。あくまでも、クールに『雑念!』。

足が痛くなったら『痛み!』。考え事が浮かんだら『妄想!』といった具合に、一回で消えない場合でもそうやって何回か無言のラベリングをするわけです。コツはあくまでも客観的に、受け身の姿勢で対処するんですね(ここで、「客観視」といった意識の道具を使うわけです)。

まるで他人事のように『これが、雑念かぁ・・そのうち消えるだろう・・』といったアンバイでやると、不思議にスッと消えていくんですね。それでも消えない場合は、雑念に意識が集中しすぎている可能性があるので、

雑念からいったん意識をそらして、例えば息をして膨らんでいるお腹の膨らみを感じる処、息の通る鼻の処に意識を強く集中してみたりするんですね。

そしてその膨らみとか息が鼻の穴を通る感覚とかを感じながら、それらを少し観察してみる(観察、これも意識の道具)・・そういった事もしてみるわけです。

ここで思うようにいかないからといって、いつもの“クセ”で感情的になったり、力づくで何とかしようとかはNG。感情・欲望・思考は使わないということです・・あたかも無限になったかのようにクールに・・。使うのは意識だけですからね。

『あぁ、また雑念だぁ~・・(嫌だなぁ~)・・』といったように、イライラしたり“嫌”(嫌は怒りの感情)といった感情が入ると中々消えませんし、欲を出して無理に雑念を消そうと思っても消えませんので放っておくんです。

自分の思うようにいかないから『嫌・・』とか、あるいは体のどこかが痛いから『嫌・・』といった怒りの感情が出てくるのも、これは遺伝子レベルの苦の感覚は嫌で避けたい、逆に気持ちが良い・快楽の感覚は受け入れ・求めるといった『快楽原則のシステム』に沿った自然の反応ですから、これも‟ありのまま”の現象として観るわけです。

痛いと感じたなら、客観的に『痛み・・』と黙語してストップ。『嫌だなぁ・・』といった感情が出てきたら『嫌だと思った・』と黙語してストップ・・出てくる感覚・感情その他何でも、そのように淡々と黙語をその現象にひたすら充てて、只々客観的にあたかも他人の眼で見るかのように観るわけです・・

これはどうしてなのかとか、うまくいかないのはなぜなのかとか、そういった思考に基づく詮索や勝手な判断・主観的な決めつけは一切しないこと・・思考・欲望・感情は使わないこと・・

あくまでも、クールに客観的に、『あたりまえ・・放っておけ』といったような受け身の姿勢でもって、雑念で出てくるモノは認める・何でも受け入れましょう・・といった見守りの心で対処していくのがポイントですね。まぁ、最初は気づいているだけで十分ですから・・とにかく使うのは「意識」といった道具だけですからね。

つまりすべてを広い心で受け入れて、すべてを客観的に観る、気づく、観察する・・そういった意識の機能全般と慈悲・愛のエネルギーを色々と使いながら、自分なりの意識の使い方、集中のやり方をみつけていくわけです。

・・まぁ、クセと言ってもどんなクセが悪いのかといいますと、例えば、怒り、嫉妬・落ち込み・悲観・傲慢・攻撃心・・・etc・・そういったような我々が日常で当たり前に使っている心の習慣ですね、それと過ぎたる貪欲さや余計な禁欲さですね・・そういった悪いクセ=プログラムが雑念として、その反応として瞑想中にも出てきます。

何度もご案内ですが、特に貪欲さ・怒り・空・無限を知らない無知この三毒に冒された心処・しんじょ“心もよう”ですね。この悪い心もよう=不善なる心処を使うたびに習慣化されて、長いあいだ使っているうちに、それがクセになり事があるたびに無意識のうちに出てしまうんですね。

たとえ、それが善くないことだと解っていても色んな場面でついつい出てしまう。そこで『解っちゃいるけど、やめられないのよねぇ・・』と言うわけです。ラエル氏はこれらの悪いクセを寄生虫だと、うまいことを云っていますが・・

意識という特効薬をフルに使って、気づく・ありのままに観る・観察する・洞察する・・そして、それら「寄生虫の思いどうりにさせない」ように・・そういった我々の“心の悪いクセ”を直す、つまり非・再プログラミングしましょうということなんですね。