再々 『八正道』のお話

・・略・・そうですね、エロヒムがはじめて人間に瞑想のやり方を教えたのはいつごろなのでしょうかね。まぁ最近では、インダス文明のころの遺跡で、座禅をするヒトをレリーフした印章が見つかったということですから、少なくても人間はすでに5000年前には瞑想を実践していたのでしょうね

たしかに、当時の人々がどのような気持ちで、どんな瞑想スタイルでやっていたのかを色々と想像をふくらませてみると面白いものですよね(笑)・・。“ヘビ”が仏陀に教えたとして、その瞑想法にしても、たかだか3000年くらい前ですよ。

それでもエロヒムが云っているように、まぁ今からみると当時の云わば原始人に教えたわけで、当時のノウハウが弟子から弟子に正しく伝承されてきているかどうかでしょうね。当時のオリジナリティーがそっくりそのまま今の“禅”や“ヴィパッサナー”に伝わっているとは中々考えられないわけです・・

・・例えば“禅”なんかでは、『無心になる・・』とか『無念無想』といったフレーズを使うんですが、確かにこういった『無になる・・空になる・・』といった心境というのも、瞑想の過程で起きる心身の状態を表わすものではあるわけです。

まぁ、これもひとつの技法で『官能瞑想』では「無の瞑想」と云いますね。技法については別にして、ハナシは少し長くなりますが、この『無の瞑想』の目的・必要性という面から云いますと・・。・・ご案内のように、仏教では‟幸福に生きる”ために『心は自分で作り、育てていくもの・・』といった一大コンセプトがあるわけです。

ラエリズムでは、それを『自己プログラミングする・・』というわけです。ラエリズムでは、仏教で云う“こころ”というものも物質的・機能的な働きとしてみていますから、少し乱暴な言い方になりますが、ここでは“脳ミソ”といったこれも極めて物質的なフレーズで表現をさせていただきます(笑)。

つまり、その“脳ミソ”のなかに雑然と詰まっているプログラムがあるわけです。まぁ、このプログラムというのは、遺伝的なモノもあるでしょうが主に我々が小さいころから親や学校から受けてきた教育ですね、その他人によって与えられてきた教育や情報によって条件づけられたものがほとんどなわけです。

それらは例えば、宇宙観や世界観、愛についての考え方、セックスや罪の観念から、はたまたファッションやご飯を食べるときの箸の使い方に至るまでの、すべてに渡って、他人から受けてきたそういった教育や情報が云わば刷り込まれてきたといってもいいくらいなものなんですね。そういったモノによって、自分の価値観を持ち、習慣・クセをつくり、それが自分の性格、パーソナリティーを作り上げてきたわけです。

それらをすべてひっくるめて、ここではプログラムといいますが、そのプログラムをすべて一度“脳ミソ”のなかから取り出して、一つ一つチェックしていきましょうということなんですね。言うならば”脳みそ”に詰まっている製品の「たな卸し」ですよ。取り出したモノを一個一個見極めて、『これは要らないから捨てましょう、これは要るのでそのままとっておきましょう・・』ということをするわけです。

この作業のことをラエリズムでは『自己プログラミング』のなかでの、まず最初にやる作業でこれを『非プログラミング』というわけです。この『非プログラミング』を仏教で喩えていうならば、三毒(貪欲さ=エゴ・怒りの感情・無知=おろかさ)で汚れたプログラムですね。このプログラムをチェックするということですね。

プログラムというのは、そのプログラムを使っている人間の心の在り方・心もようとして表面にでてくるわけですからね。ご案内のように、そういった心もようを仏教では「心処・しんじょ」といいますね。善い心もようを善心処、善くない心もようを不善心処・ふぜんしんじょといいます。

例えば、不善心処=怒り・憎しみ・恨み・嫉妬や攻撃心があるとか、ごう慢・自惚れ・物惜しみ・所有欲・支配欲が心の前面に出てくるとか、そういったものも不善なる心もようになるわけです。これらが、三毒に冒されたプログラムになるわけです。例えば嫉妬は「怒りのプログラム」を使っているわけですし、所有欲は「貪欲・エゴのプログラム」を使っていることになるわけです・・。

・・だいたい、表面に出てくる善くない心もよう、人間の悪いクセ・習慣あるいは価値観というものは、多かれ少なかれこの三毒に冒されています。そこで、これらのプログラムをより分け、取捨選択することが我々のやるべき作業の最も大切なものであり、非常に手間のかかるモノなわけです。

まぁ、『自己プログラミング』はこういった云わば『脳ミソの洗濯』ではじまるんですが、この三毒に冒されたプログラムを“ふるい”にかけるといっても、無意識的にではあれ何しろ長い間あたり前に使っていたものですからね。それらを表に取り出して捨てましょうといっても、その時の脳ミソの中は云わば、かき回されているわけですから(笑)混乱するわけですよ。

消されたくない“善くない心のプログラム”の色々な抵抗にもあうわけです。そこで、そういったグチャグチャになっている状態を整理整頓しなければいけなくなるわけですね。コンピューターで云えば、“デフラグ”みたいなものですよ。脳ミソのなかを流れている電流の調整を図り、そして神経細胞のつながりを円滑にして落ち着かせるわけなんですね。

そのために行うのが『無の瞑想』なんですよ・・。この“無”の瞑想をすることによって、一旦“脳ミソ”の調整・安定をした後で、つまり、悪いプログラムを捨てた非プログラミングのあと落ち着いた所で、今度は新しいプログラムを脳みそにインプットすることになるわけです。

何をインプットするのかというと、つまり仏教では『八正道』でいう処の正見=正しい哲学(三法印)無常・無我・苦、縁起といったものですね。あるいはそこから生まれる空の知恵=無所有、無分別、三輪空寂・・etc,それと正思=慈悲の心で考える=四無量心(慈悲喜捨)・・etc。ラエリズムで云うならば“無限”を基調にしたものの考え方、「ヒトは無限の一部、“チリ”」であるとか、無償の愛、自由・平等・ユーモア・ポジィティブシンク・・etc・・。

こういったものに根ざした価値観、エロヒムが薦める“善きプログラム”を今度は脳ミソの空いている処に入れるわけです。それを『再プログラミング』というわけです。今まで自分の脳ミソの中には無かった、自分の知らなかった新しい知識・観念、価値観・宇宙観がプログラミングされることになるわけです・・・・。

しかし、新しくプログラミングされたとしても、それらが即うまく機能するわけではないんですね。まともに使えるのにはそれなりの時間がかかるわけですし、今まで使っていた古いプログロムも、即無くなってしまうものではないんですね。新しい哲学は知識としてすぐに覚えますが、悪感情や貪欲さやエゴが絡んでくる“クセ”ですね。

ご案内のように、そういった長いあいだ使っていた悪いクセ・習慣というものは、そんなに簡単には直らないものなんです。なぜ直らないのかというと、それも簡単なことなんですね。相変わらず、日常で古いプログラムを使ってしまうからなんです。

それも条件反射的に使ってしまう、無意識的に“反応”してしまうんですね。クセ・習慣というものは恐ろしいもので、ついつい出てしまうんですよ。そこで『解かっちゃいるけど、止められないのよね~』ということになるわけです。

この“反応”を意識的にストップしなければ、いつまでたってもこの古いプログラムからの呪縛からは、逃げられないんですね。例えば今日から無闇に怒ることを止めよう、他人に優しくしましょうと決心した短気な性格なヒトが、たまたま電車の中で足を踏まれたり、会社で上司から注意を受けたり、誰かに批判されたりすると、決心したその日のうちに、ついついカ~ッとなって怒ってしまって、喧嘩をしたりね・・。

家に帰って家族に八つ当たりをしたり愚痴をこぼしたりもするわけです・・。・・こういった古いプログラムを使った“反応”ばかりしているのでは元の木阿弥ですからね。せっかく新しいプログラムを入れたわけですからね。やはり、この悪い“反応”はストップ!したほうがイイんですよ。

無意識的に条件反射的に“反応”してしまう原因というのは、意識レベルが低いとか意識力が弱いだけではないんですね。これについてのノウハウというのは、何度もご案内のように『八正道』のエッセンスである『無限の哲学・慈悲(愛)のエネルギー・意識』この三点セットでもって対処していくものですからね・・。

・・そういったわけで、まずご質問の『官能瞑想』での「無の瞑想」の目的というのは、まずひとつには『非プログラミング』時での、古いプログラムの整理整頓のため、それと二つ目は古いプログラムが“反応”として出てくるのをストップ!するのに必要な意識の訓練のため。この二点があげられるのではないかと思います・・つづく