『八正道』のお話

 

・・“ヘビ”が仏陀に伝授した『八正道』の最初にあるのは,まず「正見」ですね。「正見」つまり正しい哲学や価値観というのは、ご案内の「無限の哲学」ですね。あるいは「空の知恵」です。“苦”に対処するために無限から導いてきた知恵のことです。

仏教の三法印でおなじみの無常・無我・苦、それと自由平等、無所有、三輪空寂・・etc・・そういったモノですね。『八正道』を“樹木”に喩えるならば、「正見」はさしずめ木の“根っこ”にあたるものではないかと思います。

まぁ“根っこ”じたいが健康で、しっかりと大地に根を張っているならば、そこから出てくる幹も同じように丈夫に育つでしょうし、後々その幹から伸びてくる枝や葉っぱも、またイイものになっていくわけですからね。

そこで、その「正見」のなかでも究極の「正見」をエロヒムは彼らの『メッセージ』の中で我々に教えてくれたわけです。つまり『人間は無限の一部として存在している・・モトをただせば、ヒトは“チリ”でできている・・ヒトは“チリ”から生まれて、また“チリ”にもどっていくのです・・』というものです。

これが木の“根っこ”の部分で、嘘もかくしもない、人間の真実、ありのままの姿なわけですね。まぁそこで、『わたし=チリ』であることをしっかりと認める。そういった自己確認をすることによって、今までの“自分”に対するセルフイメージ・間違った観念にスポットがあたるわけです。

そして、そこで虚飾の仮面がはがれて、素顔の自分と対面するわけですからね。ですから、自ずと人間は謙虚になるというわけですよ。“真実”を知るということは、恐ろしいものなんですね(笑)・・。

まぁしかし、真実に目覚めて自分のルーツを知るわけですから、ホントから云えば、こんな幸せなことはないんですね。長い放浪の旅を終えて、わが家に帰ってきて荷物をおろして、ホッと一息つくようなものですよ。

ひとたび真実を知って謙虚になれば、人間の心のシステムはうまくできているものでして、今までエゴや怒り・無知で占領されていた心の部分に『認めましょう・理解しましょう・許しましょう』といった心もようを作るためのエネルギーですね、云わばそういった“愛・慈悲のエネルギー”ごときものが入り込んでくることになっているんですね。

エロヒムによって、我々の心のシステムはそのように作られているわけです。ラエル氏が言うように『・・ヒトは自分が“チリ”であることを知って、謙虚になり、同情心を持つことになる・・』と、そういった心もようになっていくものなんですよ。

ご案内のように、仏教でもこの「同情心」というのは慈悲の心のひとつですね、人間の善き感情のひとつになっていて、『四無量心』のなかの慈・悲・喜・捨のにあたるものですね。例えば、こういった四無量心の心もようでもって物事を考える、思う・・それを『八正道』の二番目「正思」というわけです。

つまり、①「正見」という“根っこ”から出てきた“幹・みき”がこの②「正思」というわけです。そして、この幹から枝・葉が出てくるわけですね。この枝・葉が③「正語=正しい言葉」。④「正業=正しい行為」。⑤「正命=正しい生活・仕事」。

⑥「正精進=正しい努力」と、こういったものなんですね・・。・・そこでまぁ、この一連のプロセスを簡単に言いますと、自分は“チリ”である・“空・くう”であることを理解することによって、段々と慈悲の心が作られることになるわけです(正見~正思)。

そこでヒトは謙虚になって、エゴや怒り・攻撃心といったものがうまくコントロールされたり、あるいは無くなったりしていきますから、当然口から出てくる言葉も他人を責め傷つけ、苦しめたりするものではなくて、ヒトを元気づけ・勇気づける言葉、思いやり・慈しみのある言葉、

これを“愛語”ともいいますが、そういった言葉(正語)が自ずと出てくるようにもなるわけです。言葉も「正語」であるならば、所作・行為もまた言葉に従うものですから、行為も自然に正しいもの(正業)になっていくわけです。

世間では、『言っている事と、やっている事が違うんでないの?・・』(笑)・・というのが当たり前になっているんですが、そういったものではないんですね。「正見・正思」が本物ならば、言行一致になるわけですから。

そういったわけですから、例えば社会に出て仕事でもしましょうかといった場合にでも、正語・正業が完成しているならば、自ずと他人や社会に危害を加えたり、苦しみを与えたりするような職業に就くことは避ける(正命)ことになるものです。

仕事といっても、悪意のある嘘をついて、電話で『俺・・俺・・』と言って、他人をだまして金を振り込ませたり、むやみに自然を破壊するような仕事もあるわけです。

また、どこかの国の外人部隊に入って、人殺しの手伝いをして大金を稼ぐといったような仕事もあるわけですが、まぁそういった仕事には自ずと就かないものなんですよ。『金が儲かるなら手段はどうでもイイから何でもやってやるぞ・・』といった発想には決してならないわけです。

・・そういったわけで、仏教ではそういった言葉・行為・仕事やそれにまつわる努力というものは、枝・葉に喩えられますが、その枝葉というのも「正思(慈悲・愛)」といった幹から出ているわけですし、

さらに「正思」もモトをただせば「正見(三法印・空・無限の哲学etc)」といった“根っこ”から生まれてくるものなんですね。善因善果・悪因悪果、善い根からは善い枝葉が出てくるし、悪い根からは悪い枝葉が出てくるものです。

我々が口にするひとつの言葉にしろ、行為や仕事にしろ、それらはどのようなものであれ、自分の中だけにとどまっていないで、大なり小なり他人や社会、自然環境に対して影響を与えるものなんです。

ですから、その木の“根っこ”にあたる「正見」がいかに大切なポイントになっているのかが、よくお解かりになるのではないかと思いますね。

そこで何度も言うようですが、『八正道』においては、『わたしは“チリ”である!・・』と・・まずは“汝自身を知れ!”といったところではないでしょうか・・つづく

ここで一句

我が部屋は おだやかなりし “チリ”のなか