続 『八正道』のお話

・・ 当初の“ヘビ”から仏陀に渡された「八正道」のコンセプトを一言で云うならば、月並みな表現ですが、それは“愛”だと思いますよ。仏教でいう処の“慈悲”ですね。

云わば、その『慈悲・愛のエネルギー』が、八正道の①「正見」から②「正思」にうまくつなげている役目を果たしているわけです。この『四諦八正道』といったシステムは、彼らエロヒムの慈悲・愛のエネルギーでもって練りに練って作りあげたものですからね。

当然このシステムを実践するならば彼らの当初のもくろみ通り、誰でも「四無量心」の心境に至り、色々な知恵も生まれてくるようになっているわけです。そこで自然に、余計な“苦”を味わうことが無くなっていくように ちゃんと設計されているわけですよ。

それは、この『四諦八正道』あるいは『官能瞑想』のシステムを実践しているヒトであるならば、仏教やラエリズムの垣根を越えて、それは誰でも実感する処ではないでしょうか。

仏教がこの3000年ちかく、慈悲のエネルギーによって支えられた『八正道』をひたすら実践してきたがゆえに、エロヒムは彼らの『メッセージ』のなかで云っているように、そこが仏教の成功を収めた大きな理由のひとつになっているのではないかと思いますよ・・・。

・・誰でも、「正見」を学び、最初は哲学者になるものなんですよ。例えば、缶詰を食べる時にでも、まずはラベルに書いてあるものを読むわけですよ。『・・無常・・無我・・苦・・フムフム・・』そこから始まる。しかし、フツーはそれで終わってしまうんですね。

読むだけで終わり。意味を辞典で調べたりして終わり。それを知識として記憶するだけなんですね。もったいないことに、自分で缶のふたを開けておいて、実際に中身を食べて味わうことはしないわけですよ(笑)。

世間では、そういった知識や情報があふれていますからね。何でもかんでも頭に詰め込んで、頭でっかちな哲学者でいっぱいですよ。しかし、それでは「正見」はあまり役に立たないんですね。

なぜなら、次の「正思」につながっていかないからなんですね。“実感”が無いからなんですよ。実践しない・瞑想しないので“実感”が無いんですね。「正見」を実感しようとしないんです。

「正見=哲学を実感する」と言うと可笑しく聞こえるかもしれませんが、エロヒムが教える瞑想法というのは『四諦八正道』にしろ『官能瞑想』にしろ、元々は“実践”して‟実感”するそういったシステムになっているんですね。ですから、まずは正しい哲学・考え方=「正見」を学ぶ。

そして、それを単なる知識にしておかないで、身をもってそれを実感することになるわけです。まずは缶詰に書いてある能書きを読んで、そして実際に缶を開けて味わって、それがホントかどうか確かめるわけですよ。そこには、色んな味わいがあるわけですからね。

仏教はそこで、“苦”といったテイストにスポットをあてるわけです。ラエリズムは主に“楽・快楽”といったテイストにスポットをあてるわけなんですね・・・。 ・・例えば、「正見」の『諸行無常』があるわけです。無常というのは「すべては変化する・・」ということです。

ご案内のように、仏教ではこれは単なる哲学を超えた「法・ダルマ」=真理・真実になっていて、三法印になってるんですね。世の中は『生老病死』自分の思うようにならない“変化”ばかりですよ。

この変化を無闇に嫌がり、自分の思い通りに何とかしようとアレコレもがいて、色々な余計な “苦”を生むことになるわけです。そこで、この『無常・変化』を自分の体と心を通してあらゆる存在・現象を“実感”して、それを徹底的に“観察”するんですね。

そうすると、ある時“無常”しか残らなくなると解かるんですね。すべては流れているんだと。一瞬たりとも止まっていないんだと。そこで、自分の思い通りにしようとするものの、思うようにはならない・・そこには“わたし”の居場所すらない‟苦”の実感・・。

この圧倒的な無常や苦の“実感”の繰り返しによって、いつか『・・こんなにも変化していくモノに、しがみついていても仕方ないなぁ・・』といった気持ちにもなっていくんですね・・。

・・そこでまぁ、変化といった流れに逆らわずに、変化を受け入れ、それに乗って流れたほうが楽なことがあると、そういったことも知るわけです。変化を受け入れることで『俺が・・わたしが・・』といった余計な自我感・自我意識ですね、そういった“りきみ”が薄らいでいくわけですよ。

ついでに、『俺のモノ・・わたしのモノ・・』といったモノに対する執着や所有欲といったものも段々と減ってくるものなんですね。 そこに、善きスキマができるんです。

おそらく、その減ったり無くなったりした「善きスキマ」の部分に『慈悲・愛のエネルギー』の善きエネルギーが入ってくるんでしょうね・・。 ・・『苦・楽』の実感を基調にして、ある時は『無常』と『苦』を、またある時は『無我』と『苦』を実感するわけです。

この無常=変化の体験を繰り返し繰り返し実感することで、『無常・無我・苦』という意味が 単なる知識としてでは無くて、自ら納得して心の奥の処で落ち着くわけですよ。身になるんですね。

そして、面白いことに“無常”ならぬ“無情”ですね。云わば“もののあわれ”といったものも解かるようになるんですよ。つまり「正見」=無常・無我・苦が、人間の大切な‟感情”といった処につながっていく。ここで「正見」が「正思」に自然にリンクしていってるわけです。

ご案内の『四無量心』の「慈心」・「悲心」といった慈しみ・哀れみの心、同情心ですね。そういった善心処(ぜんしんじょ)といった“善き心もよう”になっていくんですね。

そういったわけで、「正見」が「・・慈悲の心で、善き感情の心でもって考える・思う・・」そういった意味合いの「正思」といった処にスムーズにつながっていくといったアンバイなわけです。この『八正道』というのは、うまいシステムに作られているんですよ。

仏陀の『・・正見によって、正思が生まれる・・』というのはご案内ですが、ラエリズムの提唱者ラエル氏も『・・自分が“チリ”だという真実(正見)を知ることによって、ヒトは謙虚になって“同情心”(正思)を持つことになります・・』と確かに言っていますからね。

ですから、仏教で云う「正見」が無常・無我=法・ダルマ=真理・真実であるならば、エロヒムが云うように 『・・人間は“チリ”から生まれて、また“チリ”に還っていく・・』といったフレーズが、仏教の「正見』」を一まとめにして、言い得ているのではないでしょうかね・・。

何度も言うようですが、ヒトは『自分は“チリ”なんだ・・』と『わたしは、無限の一部なんだ・・無限そのものなんだ・・』と、そういった真理・真実を知ることによって謙虚になるものですよ。同時に、慈しみや哀れみ・同情心・愛といった善き心=善心処の心もようにもなっていくものなんですよ・・ 。

・・モトをただせば、人間は“チリ”なんですから・・。あなたの名刺の表に『わたしの姓は“無限”です、名は“チリ”です』と書いて、『私は、“無限ちり”と申します』と、ヒト様にそのように云っても何も可笑しいハナシでは無いんですよ(笑)。やってみてください・・・つづく

ここで一句

あきらめか 慈悲の心か チリになり