又 『八正道』のお話

・・ラエリズムの『無限』の定義については、我々はエロヒムから教えてもらっているのでよく解るんですね。つまり、『時間と空間の無限性と、科学的な生命の創造の循環・無限性・・』です。まぁこれを『空・くう』でご案内ですね。

しかし、この時空の無限性に関しても、ヒト様に対して完璧に無限を証明できるものではないですからね。これを証明しようとすると、それこそ無限の時間が必要になるわけですからね。

誰にでも解るように『はい、無限ですよ・・』と、もし貴方が‟自分(わたし)”以外に証明書を出すといったアプローチをするならば、『おそらく無限であるだろう・・』ということで無限を理解してもらうしかないと思うんですね。エロヒムのように、どんなに進んだ科学のテクノロジーでもってしてもですよ・・。

たとえ無限大の生命体のなかの小さな細胞の中の微粒子のなかの惑星に住む知的生命体が、光速の何倍もの速度が出る宇宙船に乗って、その大きな生命体の細胞を破って更に肉と皮膚をも突き破って、さらに向うに行ったとしても、無限の果てまで行ってそこに“探検隊の旗”を立ててくることはできないでしょ。そう思いませんか?・・

そういったことで、これもエロヒムが我々に教えてくれたことなんですが、無限を証明できるのはロケットとか電子顕微鏡そういった知恵を使わなくてもイイということなんですね。つまり、人間なら誰でも持っている五感と意識、これを通しての『‟わたし”の実感』だけでイイということなんですよ。

これならずいぶん簡単なんですよ。他には何もいらない、たった一つの頼みの綱は 皮肉にもそのささやかな自分の“実感”と自分の“意識”それだけだと云うんですからね。だれでも経験している、この実感によって『これなんだっ!・・』と“無限のシッポ”をつかむことができると・・。

しかも無限は、我々の遠い所に在るわけではないですからね。別にロケットに乗って他の世界に行かなくても、どこにでも無限の扉は開いているわけですから、我々が五感によって実感するならば、その時に意識しているならば、快楽、喜び・幸福感、解放感そういった“苦”では無い実感があるならば、いつでもどこでも無限の扉は開いているということです。

さらに無限というのは“いま”といった瞬間の連続ですからね。金太郎飴みたいなモノですから、どこを切っても“いま”が出てくるんですよ。無限は“今でしょ”といったアンバイ・・

・・そこで、だいたい我々は後からそういった感じ・実感を“無限”という言葉で表現することになるわけですね。まぁここでは過去形の表現で云いますけれども『‟わたし”は無限を感じた・・無限と共にいた・・』と。

しかし極端に云うと、“無限”というのは意識と実感が無ければ、“わたし・我”と同じで、単なる言葉・概念になってしまうと思うんですね。存在しているにもかかわらず、“無いと同じ”そういったモノですね、少しヤヤコシイんですけれど(笑)。

つまり無限はただ自分が実感している時にだけ、その時だけ「いま、この瞬間」そこに在る・・そういった存在なんですね。無我についても、それと同じなんですね。そこで、『“無我”の定義は 霊魂が無いということだ・・』とか『“わたし”というのは単なる概念だ、妄想だ・・そんなものは無いんだ・・』とか

『“わたし”という自我感を持つというものは、これは遺伝子レベルでのプログラムである・・』と云うんですが、こういったように無我だ、実際には“わたし”は無いんだとは云っても、無いなら無いなりにやはり、これも実感する必要があるわけですよ。

・・例えば、仏教は観察によって“わたし”を三千年に渡って観てきたわけですね。観察して実感してきたわけです。そしてその“わたし”の観察によって、その時“わたし”はそこに居なかったと、その時にはそこは空っぽで何も無かったんだと、“空・くう”であったんだと、在るのは無常=変化だけなんだと、

そのように多くの人々が“その時”に実感したからそのように言ったのではないかと思うんですね。“その時”に実感して“わたし”といったモノは無いんだと、そしてその後で『無我』といった言葉・フレーズでもって、その実感にあてたわけです。

仏教は“わたし”の観察によって、実は“わたし”というのは概念だけであって、あるのは無常=変化だけだと認識した・・‟無限のシッポ”を踏んだわけなんです。つまり、最初に仏陀の云った『無常・無我』といった無限の性格といったモノを三千年近くに渡って検証し続けてきたというわけです。

彼らはその長い検証によって、無我の実感と共に無常・変化という“無限のシッポ”をそこでつかんだというわけなんですね。こういった実感を重ねていって始めて、無常・無我といった言葉が生まれそれが定着し、後でそれが哲学になるんです。「哲学を感じる、実感する・・」というのはこのことを言うわけです。

まぁそこで仏教は“わたし”といったモノが無いと解ったわけですから、自ずと日常での行為というものも「“わたし”が無い行為」=エゴ・我が無い行為の実践ですね。無所有とか無執着とか、あるいは無償の慈悲の行為そういったモノになってくるわけですよ。

例えば、ご案内の『三輪空寂・さんりんくうじゃく』なんかはそうですね。『だれが・だれに・何かをする・・』といったことに“こだわらない”ということ。

相手が喜ぶならば幸福であれば、自分でなくても他の誰かがプレゼントしてもイイわけですから。いわゆる匿名のプレゼントですね、仏教では「布施」といいますけれど。

そういった仏教特有の価値観・哲学というモノ・・元をたどれば無常・変化とか「“わたし”は無い」・無我といったモノは、その誰でも味わうことができる“実感”から生まれたのではないでしょうか。『実感する・・』ということはとても大切なことなんです・・。